みなさん、おはようございます。今日の聖書箇所は、イエス様が山の上で群衆に語られた説教の初めの部分、通称、「八福の教え」と言われているところです。
なぜ八福と言うかは、幸いですという言葉が八回繰り返されているからです。
そのまんまですね。
この八福の教えのうち、「心の貧しい者は幸いです」という3節については、以前語ったことがありますので、今日は4節の「悲しむ者は幸いです」というみことばを一緒に味わっていきたいと思います。
4節をもう一度お読みします。
「悲しむ者は幸いです、その人たちは慰められるからです」。
私たちクリスチャンはイエスさま大好きですから、ああ、言い言葉だなあと思うかもしれませんが、実際に悲しんでいる人にこの言葉を贈ったとき、十中八九、変な顔をされることでしょう。
中にはその悲しみの深刻さゆえに、怒り出す人もいるかもしれません。
悲しむ人が幸せだなんて何を言うかあ、と。
常識で考えてみたら、悲しんでいる時よりは喜んでいる時の方が幸せです。
いくら悲しい者は慰められると言われても、普通の人が神さまに臨むことは、慰めてもらわなくてもいいですから、悲しいことも私の上に起こさないでください、というものでしょう。
アイデンティティという英語を聞いたことがあるでしょうか。
自己同一性という難しい言葉で訳されることがありますが、私流の解釈は、自分が世の中に必要とされているという生きがいです。
例えば家族が私を必要としている、社会が私を必要としている、人はそのように自分は必要とされている、という確信があってこそ、生きていける。
だけど、では誰も必要と認めない人は生きていても仕方がないのか、という疑問が浮かびます。
そんな人はいない、少なくても私はそうではない、と人は考えるのですが、自分が考えもしなかった悲しみに襲われたとき、誰かに必要とされているという建前が通用しなくなるほどに、立ち上がる力が失われてしまいます。
愛する家族を失った人、人生の大半を費やしてきた仕事を失った人、親しい友や恋人に裏切られた人、実際にそのような、生半可ではない悲しみに襲われた人たちは、生きる意味を失い、誰かが私を必要としているという人生の目的で自分を支えられなくなってしまう。
たいへん不幸なことです。人間の目にはそう見えます。しかし本当に不幸なのか。
それまでの人生がどんなに充実していたとしても、それは神に気づかず、神に頼らず、神を無視して生きてきた人生ではなかったか。
だからこそ神は私たちに悲しみを通して、私たちの目を開かれます。
誰かに必要とされていることで自分を奮い立たせる生き方は、真実なようで真実ではない。
私たちは弱く、いつも慰められることを必要としている。
悲しみを通して、私たちがいつも神の慰めを必要としているもろい存在なのだということを私たちは知ります。
喜びが幸福で、悲しみが不幸だという単純な人生観ではなく、悲しみの中にあるからこそ、変わりゆく人間の言葉や思いではなく、決して変わらない神の愛と慰めの中に生きることができるのだ、と。
あるテレビ番組で、生きづらさを抱えながら生きる男性のことを取り上げていました。
その方は先天的な障がいがあり、生まれつき情動が希薄でした。
つまり喜怒哀楽といった感情がわからない。
そのため、幼い頃から両親を含めて周りの人々からは誤解され、心ない言葉を投げつけられることも多かったそうです。
成長するにつれて、感情を大げさに表現することで人間関係のトラブルを避けることができると知った彼は、努力の結果、「喜び」の表現を覚えました。
たとえ嬉しくなくても、顔の筋肉を持ち上げて、喜びのジェスチャを演じることができるようになりました。
それを続けていくうちに、なんとなく喜びの感情がわかるようになった。
しかし「悲しみ」の感情はまだわからないということでした。
おまえなんか生まれないほうがよかったと言われ続けた彼は、自分がいなくなることによって誰かが悲しむということが想像できない。
一人で暮らすのは寂しいでしょうと誰かに言われたので、犬を飼うことにした。
しかしその犬が死んでしまったときも、その犬がもうどこにもいないという悲しみがわからない。
何かモヤモヤしたものはあるが、それが悲しみなのかどうかがわからない。
笑うことはできるのに、涙が出てこない。
悲しむことができるというのは、これほどまでに貴重なこと、尊いことなのではないでしょうか。
悲しみは決して人生に不要なものではなく、神が人間に与えてくださった賜物でさえあるのかもしれない。
もちろん神が作られた最初の楽園には悲しみはなかったし、やがて来る永遠の天国にも悲しみはありません。
しかしクリスチャンならこんなことを経験するのではないでしょうか。
悲しみの中にあった時には、神に必死で祈った、聖書をむさぼるように求め、神のみ声を聞き逃すまいとした。
しかし悲しみが過ぎ去ってしまうと、いつのまにか祈ることも、聖書を開くこともなおざりになったという経験を。
手紙の中に、こういうみことばがあります。
「神の御心に沿った悲しみは、悔いのない救いに至る、悔い改めを生じさせるが、世の悲しみは死をもたらす」。
世の多くの人々は、悲しみを不要なものとして避けていきます。
しかし神を信じる者、そしてまだ信じてはいないけれども救いに定められている者たちにとっては違うのです。
悲しみの経験をするとき、むしろ神を近くに感じます。
確かに悲しみはつらい。
苦しい。
できることなら取り去ってほしいと願う。
しかし悲しみの中だからこそ、感じることのできる暖かさがある。
それは人の温かさではない。
神が近くにおられ、そして私の肩の上に手を置いて慰めてくれている。
悲しみの中で、私たちは何もできない、何もしたくないという気持ちに陥る。
だが私たちが何もできないと感じる時こそが、神が私のために立ち上がり、私を助けられるということを確信できるときなのです。
イエスさまも悲しみの人でした。
いつも人々の悲しみを背負い、それゆえに慰められることを知っていた人でした。
私たちのために自分のいのちを十字架で捨てられた方、そのイエスがいつも私たちとともにいて、私たちを慰めてくださいます。
悲しみがこのイエス・キリストに近づくための扉であるならば、悲しみは決して人生にとってマイナスではない、むしろ避けることのできないチャンスであるということができるでしょう。
今日のみことばをもう一度それぞれが心に刻みつけましょう。
たとえ私たちをとりまく現実が悲しみに満ちているものだとしても、それを通して私たちに近づこうとしておられるイエス・キリストをおぼえて歩んでいきましょう。