みなさん、おはようございます。先週の礼拝メッセージでは、弟息子に対する父の愛を一緒に学びました。
それはどんな罪人をもただ優しく抱きしめてくださる神の愛を表しています。
今日は後半部分、その絶対的な父の愛が、兄息子にも惜しみなく与えられていることを学びます。
この兄息子はパリサイ人や律法学者を表し、弟息子は彼らが見下していた取税人や遊女といった人々を表していました。
しかし父、つまり神の愛は、あらゆる人に対して注がれています。
差別される者にも、そして差別する者にも、あらゆる人々に例外なく、惜しみなく、神の愛は注がれているのです。
父親から財産を受け取ってすっからかんにしてしまった弟息子は、悔い改めて家に帰ってきました。
そこに至るまでの期間がどれくらいかわかりませんが、父親は毎日、この弟息子を探していたのでしょう。
弟息子がまだ家から遠くにいたのに、走り寄って抱きしめました。
今までのことをとがめることもなく、ただ喜び、ひたすら喜び、祝宴を開いた、ということが24節には書いてあります。
畑で働いている兄息子に、しもべの誰かが宴会やってますよと伝えに行けばいいと思うのですが、ちょっとタイミングが合わなかったようで、兄息子が何も知らずに帰ってくると、家の中で宴会をやっているではありませんか。
聞くと、弟息子が帰ってきたという。
そこで兄息子はヤッターとはならなかったのですね。
むかつく。腹立つ。家に入りたくない。
なだめる父親に対して、彼は思いをぶつけました。29節をお読みします。
「ご覧ください。
長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。
その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは」。
兄息子はパリサイ人や律法学者を指している、とすでに語りました。
彼らは確かに自分たちで言うとおり、長年の間、一生懸命、父なる神に仕えてきました。
しかしどんなに尊い奉仕であっても、愛が動機となっていないものは義務感の中に沈んでいきます。
自分には子山羊一匹くれないのに、どうして弟には子牛をほふらせたのか、と彼は父親に食ってかかりました。
一生懸命、父に仕えてきたのは自分ではないか。
なのに、なぜ放蕩の限りを尽くしたあげく、のこのこ帰ってきた弟がここまでえこひいきされるのか。
どうして弟がそこまで愛されるのか。えこひいきされるのか。
兄の言葉の中で、たいへん気にかかる表現があります。
彼は弟のことを「財産を食いつぶした息子」「そんな息子」と呼びます。
それに対して父親は「おまえの弟」と呼びます。
身内なのですから本当は名前で呼んでほしいところですが、たとえ話ですからそこは仕方がありません。
しかし兄は「弟」と呼ばずに、あなたの「息子」と呼びます。
「弟」と呼びたくないのでしょう。
自分自身、父の息子であるのに弟をあなたの息子と呼んでいるのは、父親の愛も祝福も全部自分からもぎとってしまったという妬みと敵意が垣間見えます。
もう二十年以上も前のことです。
すでに教会を離れた信徒の方ですが、私との個人的会話の中でしばしば「この教会の人たち」という言葉が出てきました。
それを聞くたびに、私の心の中には悲しいような、寂しいような思いを抱いたものです。
そこは「私たち」と言うべきではないか、と。
同じ教会員同士、キリストが命をかけて贖われた者同士でありながら、私はあの人たちとは違う、という兄息子の視線が重なります。
教会で問題が起きているとき、「私たち」ではなく「この教会の人たち」という時には、自分は問題の関係者ではないとしてしまっているのです。
しかし神に感謝すべきは、自分の弟を弟と呼べない、そんな兄息子にさえ、この父親は、弟に勝るとも劣らない愛を注いでいることです。
あくまでもこれはイエスさまのたとえ話です。
しかしまるで目の前に起きている、家族の姿をそのまま語っているかのように、イエスさまはリアルに語ります。
怒りのあまり、父親に思いのたけをすべてぶつけてくる兄に対し、父はおまえは間違っていると突き放すことはありません。
ただ、彼に一言、答えました。31節をご覧下さい。
「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ』」。
父親は、かたくなな心に捕らえられてしまった兄に対して、こう語りかけているのではないでしょうか。
息子よ、思い出せ。弟と一緒に汗を流して畑を耕した昔のことを。
兄弟二人で荷車を引いて家路に着いたあの頃を。
いっしょのテーブルで食事を分け合ったかつての日々を。
振り上げている拳をおろして、代わりにたったひとりの弟の手を握ってあげてくれ。
いなくなっていた弟が帰ってきた喜びを、どうかいっしょに分かち合ってくれ。
おまえがいなければ、この祝宴は完成しない。
どうかこの喜びの祝宴に笑顔で加わってくれないか。
この兄息子が、父の呼びかけにどう答えたのか、イエス様はあえて語っておられません。
この話の続きを紡ぎ出すのは、たとえ話の登場人物にすぎない、想像上の兄息子ではなく、兄の分身そのものである私たち自身でなければならないからです。
言い換えれば、このたとえ話は、私たちがこのメッセージを聞いた後に、いかに行動していくかによって完成されます。
今日も明日もプライドを人生の伴侶にして家の外でむくれ続けるのか。
それともプライドを自ら踏みつぶして、きびすを返し祝宴に加わっていくのか。
神は、あなたをご自分の子どもとしたいと願っておられます。
そしてあなたがイエス・キリストを信じて神の子どもとなるまで、祝宴の外であなたをなだめ、招かれるお方です。
なぜでしょうか。
あなたがいないと祝宴が始まらないからです。
事実、あなたを招き入れるために、神はご自分のひとり子イエス・キリストをあなたの罪の身代わりとして十字架にかけてさえくださったのです。
神の祝宴に招かれているすべての者よ。喜びましょう。私たちは主役です。
喜んで祝宴に着けばよいのです。
私たちの教会は、次のみことばを今年の目標聖句に掲げています。
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」。
しかし本来はこのみことばは目標ではなく、すでに起こっている事実であるはずなのです。
いま、私たちは兄弟姉妹として、一つになり、ともに生きている。
それは何という楽しさ、何という恵みだろう、と。
どうかひとり一人がこの喜びをかみしめていくことができるように。