みなさん、おはようございます。今日の聖書箇所は、「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる物語から、一緒に分かち合っていきたいと思います。
まずこのたとえ話は、ある人に二人の息子がいた、というところから始まります。
お兄さんのほうは今日のところでは出てきません。
この物語はこの後もまだ続きがありますので、またその時にお兄さんのことを話します。
今日は弟のほうだけです。
そしてこの弟がなかなか大物です。
いきなり父親のところにやってきて、「お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい」とお願いするのですね。
まあ、現代ですと、相続税対策や、認知症になって遺言が残せなくなると困るから、といったことで、親が健在なうちに財産を分ける、ということはあります。
しかし二千年前のイエスさまの時代には、親が生きているのに財産をください、というのはちょっとあり得ません。
この弟息子のおねだりの本音は、「お父さん、早く死んでくれないかなあ」ですね。
まあ、とんでもない息子に育ってしまった。
どこで教育を間違えたのか。
父親の嘆きは相当でありましょう。
しかしなんとこのお父さん、素直に財産を分けてあげるのです。
先週のメッセージの中で、このルカ15章に含まれている一連のメッセージは、パリサイ人や律法学者といった、当時の宗教指導者に向けて語られたものだと説明しました。
彼らは、取税人や遊女といった、自分たちの教えを聞こうとしない人々を罪人と呼び、彼らと親しく食事をしているイエスさまを批判していました。
彼らにしてみれば、この弟息子こそ、自分たちが罪人と呼んでいる取税人や遊女といった、金銭やモラルに対してだらしない者たちの象徴のようなものです。
父親から財産を受け取るや、すぐに家を出て、瞬く間に身を持ち崩してしまうこの弟息子と、そんな息子を野放しにしてきた父親、聞く価値もないたとえ話となるでしょう。
しかしイエスさまがこのたとえ話に込めたのは、この父親の、一見甘やかしているように見える姿こそ、じつは罪人に対してどこまでも寛容で、待ち続ける、神の愛を表しているのだということでした。
現代の私たちから見ても、この父親もしつけという意味ではちょっとおかしい、と感じるかもしれません。
ましてや二千年前のパリサイ人や律法学者からすれば、この親にしてこの子あり、といったところでしょう。
しかしこの弟息子こそ、神の愛がわからずにさまよい続けている、私たちあらゆる人間の姿です。
そしてまことの神は、そのような人間をさばき、バチをあてるような存在ではない。
どこまでも愛し、傷を包み、帰ってくるのを待ち続ける、それがまことの神である、と。
放蕩息子がさんざん道を踏み外し、豚の食べる豆で腹を満たしたいとさえ思うほどに落ちるところまで落ちたとき、彼は初めて我に返りました。
そのとき彼は、父の家に帰ろうと思いました。
それは、神の愛があるところには、どれだけあたたかさがあるのかということを、この息子が体験していたからでした。
これが神の愛なのです。
神は正しい者たちだけの神ではなく、すべての罪人にとっても父なる神です。
どんなにその子供たちが愚かで、罪を犯した者であったとしても、いつまでも待ち続けてくださるお方です。
よく考えもせずに、遺産の分け前を受取り、家を出て行った息子の行いをとがめません。
むしろ遠くから走り寄って、かき抱き、口づけをします。
息子はあらかじめ用意していた謝罪の言葉を口にします。
でも父は、この息子が謝ったから抱きしめたのではありません。
この息子が帰ってきたから抱きしめたのです。
これが聖書の説く、神の愛です。
聖書は、すべての人間は生まれながらにして罪人である、と教えます。
たとえ行動としての罪を犯すことはなくても、心の中で神を拒み、無視し、踏みつけており、すべての人間は例外なく神の怒りを受けている、と。
そんな私たちが罪赦されて神の子どもとされるためには、罪を悔い改めることが不可欠です。
しかし誤解を恐れず、あえてこう言いましょう。
私たちが悔い改める前に、すでに神の愛は私たちに向けられています。
その愛のしるしが、イエス・キリストが私たちの受けるべき罪のさばきを十字架で身代わりとして引き受けてくださったことです。
しかしたとえキリストが何百回身代わりになって死んでくださったとしても、悔い改めがなければ救いを受け取ることはできません。
このたとえ話が教えていることは、悔い改めなければ、神はあなたを愛さないということではありません。
悔い改めがなかったら、あなたは神の愛を100%楽しむことができないのだ、ということです。
だから悔い改めというのは、つらいこと、苦しいこと、ではなくて、神の愛を心の底から受取り、自分がどれほどまでに神に愛されているのかをかみしめることができる至福の時、とさえ言うことができます。
人によって、父親という存在は、ただ厳しい人というイメージしかない場合もあります。
しかし神が私たちのまことの父である、という言葉の意味は、どんなことがあっても、まことの父である神は、私たちを見捨てることはないのだ、という約束です。
私たちひとり一人を無条件に愛してくださる方、それが父なる神であり、イエス・キリストです。
最後に、今日の招きの言葉をもう一度繰り返して、終わりたいと思います。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」。