みなさん、おはようございます。今日の礼拝メッセージは、イエスさまのたとえ話の中でも、最もよく知られたものの一つである、九十九匹の羊のたとえから、神さまが私たちをどれほど愛しておられるのかということを一緒に味わっていきたいと思います。
まず、今日のメッセージの前提として、人間は、ねたみや怒りに支配されてしまうとき、本来持っている、優しい心も失ってしまうということをおぼえていきたいと思います。4節をご覧ください。
「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら」とイエスさまは語りかけておられます。
これはだれに対するメッセージでしょうか。
3節を見ると、「彼らにこのようなたとえを話された」とあり、さらにその前の2節を見れば、その彼らとは、パリサイ人、律法学者であることがわかります。
弟子たちでもない、取税人や罪人たちでもない、イエスさまはパリサイ人、律法学者に対して、あなたがたが一匹の迷子の羊をなくしたら、あなたがたはいなくなった一匹を見つけるまで探し歩くでしょう。
そしてもし見つかったら、友だちや近所の人と一緒に喜ぶでしょう、と話しかけておられるのです。
パリサイ人、律法学者は、本来、意地悪で邪悪な人々ではありませんでした。
彼らはイスラエルの宗教指導者たちです。
聖書をよく学び、そして聖書を行おうとしていました。
しかし聖書の中では、彼らは終始一貫して、悪役として描かれています。
それはイエスさまに対するねたみ、敵意のためです。
彼らだって、迷子の羊を見つけたら、プライドなんか忘れて、大喜びするのに、イエスさまに対するねたみと敵意で、自分を見失っていました。
それをイエスさまは取り戻そうと語っておられるのです。
ドラクマ銀貨を一枚なくしてしまった女の人のたとえにも簡単に触れておきましょう。
当時は、結婚指輪を贈るという習慣がありませんでした。
代わりに、銀貨10枚を数珠つなぎにした髪飾りを、男性は女性に送ったそうです。
今でも中近東では、コインがいくつもつり下がっているヘッドバンドを女の人がしているのを見ることがあります。
現代では未婚の女性でもそれをしていますが、二千年前は既婚者の証しであったわけですね。
この銀貨10枚が結婚指輪の代わりだとすれば、その一枚をなくしたときの一生懸命さが分かるような気がします。
夫から夫婦の絆として贈られた宝物であるとすれば、一枚なくしてもまあいいや、あと9枚ある、とはならなかったでしょう。
じつは当時は、光をともすための油は、かなり貴重なものでした。
なくした銀貨一枚を見つけるために夜通し明かりをともすというのは、現代で言えば、家でエアコンを付けると電気代がかかるからと言って、車の中でエアコンをつけるようなものです。
よっぽど金がかかるわけです。
しかし女の人にとってこの銀貨一枚は、油代がどれだけかかっても、家の中を隅々までかき回してでも見つけなければならないものでした。
それが見つかったならば、時間お構いなく、近所の婦人たちや友達をかき集めずにはいられなかったでしょう。
そして今ではお茶、風呂、寝るしか言わなくなったご主人も、昔は優しくてまめな人だったのよ、とかいうのろけ話に花を咲かせたのかもしれません。
イエス様がこの二つのたとえ話を通して語られた、「罪人が失われること」。
それは、たった一つが、たった一人が欠けたとしても、それはすべてが欠けることに等しいのだ、ということを意味しています。
一匹の羊がいなくなってしまった人、そして一枚の銀貨をなくしてしまった女の人、このどちらも、大事なものを見失っているパリサイ人や律法学者たちに向けて語られたたとえです。
彼らパリサイ人、律法学者が聖書を学び、古くからの言い伝えを大事にしたのは、本来はそれによって人々の生活を幸せにするためであったはずです。
自分の生活を優先して神さまをないがしろにしている人には、聖書に戻るように教え、自分自身もその模範になろうとしたのがもともとの彼らでした。
しかし正しさを追い求め、社会をよくするために人々を教えようとしていた彼らは、いつのまにか、自分たちの求める基準に達しない人々を批判し、さばいたり、のけ者にしていくことで、自分たちの正しさを誇るようになってしまいました。
その基準に達しない人とは、取税人、罪人、遊女といった人々です。
そしてパリサイ人たちは、自分たちがそのように見下すようになった人々を受け入れて、一緒に食事をしているイエスに対して、激しくねたみ、攻撃し、神さまを悲しませていました。
しかし神さまは、どの時代においてもこう言われているのです。
どんな人であっても、決して必要とされていない者などいないのだ。
どんな人もこの世界から欠けてはならないのだ。
たとえ彼らが自分の求める基準に届かない人々であったとしても、この世界から消してはならない。
それは、家庭でも、学校でも、教会でも、あらゆるところで宣言されなければならないことです。
あなたは、いなくなってはいけない人なのだ、とお互いに認め合うことができたら、何と幸せなことでしょうか。
パリサイ人や律法学者にとって、イエスの話を聞きに集まった人々は、自分たちの生活に入り込んでほしくない者たちでした。
彼らにとっては、一緒に食事をするだけでけがれてしまうほど、この罪人や取税人たちは、彼らの世界には必要のない者たちでした。
しかし神様の目には違っていました。
彼らは、そのたった一人が欠けてもならない、大切な人々であり、必要な人々であるのです。
私たちは罪人です。
ひとりの例外なく、みなが罪人です。
クリスチャンでさえ、救われた罪人です。
しかしどんな一人が欠けても、この世界は神の満足した世界の姿から離れてしまいます。
御使いたちの喜びの叫びとはまったく無関係で、何も聞こえない世界になってしまいます。
私たちは、まず自分自身がこの銀貨であり、迷子の羊なのだと認めましょう。
次に隣の人もまた、同じように銀貨一枚であり、迷子の羊なのだと認めましょう。
そして私の知らないところで苦しんでいる、名前も知らない人もまた、同じように銀貨一枚であり、迷子の羊なのだと認めましょう。
イエス・キリストは、そのすべての人のために死んでくださったのです。
この方が私のために死んでくださり、この方が十字架で差し出されたいのちによってあなたは永遠に生きることができるのです。
そしてこの方にしがみついて歩み続けるならば、その人はもう決して神の前から失われることはないのです。
どうか私たちに、主イエスと同じようにあわれみの心が与えられるように。
失われた一匹を探し続ける羊飼い、失われた一枚を探し続ける女性のように、イエス・キリストの愛の模範に従うことができますように。