みなさん、おはようございます。今日の聖書箇所は、初代教会の歩みを記した、使徒の働きの中から第8章、教会学校で語られたのと同じところから、短い箇所ですが、1節から4節をともに分かち合っていきたいと思います。
初代教会は、毎日多くの救われる人々が与えられ、イスラエルの宗教指導者たちにとって決して無視できない存在となっていきました。
そこで彼らはペテロやヨハネを捕まえて、これ以上福音を語るなと脅したのですが、もちろん使徒たちはそのような脅迫に屈しません。
このイエス・キリストの福音、いのちのことばを語らなければ、だれも救われないのだ、だから私たちは決して語ることをやめない、と宣言し、どんなに迫害を受けても語り続けました。
しかしあるとき、ステパノというクリスチャンが、とうとう怒り狂った群衆たちに石を投げつけられて殺されました。
最初の殉教者です。
それまではクリスチャンは捕らえられることはあっても殺されることはなかったのですが、このことをきっかけとして、エルサレムのクリスチャンと教会に対して、かつてない規模の迫害が始まりました。
教会を敵対視する、典型的なユダヤ人のひとり、サウロという青年は、クリスチャンが集まっているという家々を次々に襲い、信徒を引きずり出して、投獄しました。
このサウロこそ、後に復活のイエス・キリストに出会って人生を変えられるパウロその人なのですが、それはまたいずれのお話しになります。
サウロ、後のパウロは、自分のことを「ガマリエルの弟子」と語っています。
サウロの師にあたるガマリエルは、当時イスラエルにおいて、穏健な派閥の指導者とみなされていた人でした。
イスラエルの宗教指導者たちが教会を迫害しているなかで、ガマリエルは彼らを説得し、迫害をやめさせようとした人です。
しかしその弟子であるサウロは、なぜここまでクリスチャンを迫害したのでしょうか。
それは、どんなに脅迫しても屈せず、どんなに迫害しても信仰を捨てない、彼らの底の見えない生命力に対して、サウロはおびえ、ひたすら攻撃したのです。
それを表すのが3節の言葉です。
「サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた」とあります。
ここで「教会を荒らし」と訳されている「荒らす」というギリシャ語は特別な言葉です。
半狂乱の獣が敵に襲いかかり、そのからだを引きちぎっていくことを表します。
狩りを楽しむために引きちぎるのではなく、自分が殺されないために敵を狂ったように引きちぎっていくのが、この「荒らす」という言葉の意味です。
サウロはまさにおびえる獣のようでした。
なぜおびえたのか。
それは、クリスチャンが同じユダヤ人でありながら、サウロには理解できない人々であったからです。
ユダヤ人であれば、幼い頃から神は目に見えないお方であり、人を拝むのは偶像礼拝だと教えられてきたはず。
しかしなぜ彼らはイエスなどという人間を神と主張し続けるのか。
なぜ十字架刑にかけられた人間を救い主などと信じるのか。
そしてこんな常軌を逸した教えに対して、なぜこれほどの人間が次から次へと取り込まれていくのか。
それはすべてサウロの理解を超えた、クリスチャンの姿でした。
人は自分の理解できるものに対しては愛あるいは憎しみを抱きます。
しかし理解できないものに対して抱く感情は、恐怖です。
サウロが教会とクリスチャンに対して抱いていた感情は、まさに相手を理解できない、相手を理解しようとしないという恐怖でした。
もはや理性や自制の及ばない、破壊的な迫害がエルサレムに起こり、クリスチャンたちは次々と投獄され、殺されていきました。
使徒たちは命をかけてエルサレムにとどまり、そのほかのクリスチャンたちはエルサレムを離れて、ユダヤ、サマリヤの全地方へと散らされていきました。
しかし恐怖に駆られた獣が教会をばらばらにしても、教会は決して消滅しませんでした。
むしろ、散らされた場所で、ひとり一人のクリスチャンが福音を語り、ますます教会は成長していったのです。
昭和生まれの方は、かつてウーパールーパーという南米の生き物をテレビのCMで見たことがあると思います。
私の子どもの頃に一時ブームになり、すぐに下火になりましたが、ウーパールーパーというのは日本人が勝手につけた名前で、本来はメキシコサンショウウオと言います。
かわいげな顔をした、ピンク色のカエルという風貌ですが、このウーパールーパー、テレビからは消えましたが、世界中の大学や企業の研究所で飼育され続けています。
なぜかというと、脳や心臓が損傷しても自然に再生するという驚くべき再生能力を持っている高等生物であり、これを人間に応用する研究が続けられているからです。
教会のマークは伝統的に魚が使われてきましたが、ウーパールーパーにしてもよいかもしれません。
教会はバラバラになっても、それぞれ散らされた場所で必ず教会は再生します。
だからこそ、私たちは間違えてはなりません。
高齢化や少子化に伴う信徒の減少、教会に対する批判や攻撃、そういったことは必ず通る道です。
恐れるべきことではありません。
むしろ恐れるべきは、私たちが、ばらばらにされることをいやがって群れるだけの存在に成り下がることです。
散らされることを恐れて、自らの力に頼りきる群れになってしまうことです。
1節にある「散らされた」という言葉は、ギリシャ語で「ディアスペイロー」と言います。
ここに含まれる「スペイロー」は種を蒔くという意味です。
じつに散らされるからこそ、種は蒔かれていくのです。
たんぽぽの種が、綿帽子のように身を寄せ合っているあいだは、何も生まれません。
しかし風で飛ばされて、散らされたときに、はじめて種は蒔かれていくのです。
クリスチャンにとって迫害とは、聖霊が起こしてくださる成長の風です。
だからこそ迫害を恐れるべきではありません。
後に救われて伝道者パウロと改名する、かの迫害者サウロは、晩年に書いた手紙の中でこう書いています。
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」。
明治時代にキリスト教が解禁されて以来160年、日本の教会はごく一部を除いて、迫害を避けてきました。
今もそうです。
しかし風が吹かなければ種は飛ばない。
ばらばらに散らされなければ、いつまでも仲良しクラブのまま。
聖霊の風よ、吹けと祈る者たちが必要です。
たとえ人々から恐れられ、疎まれようとも、ただイエスの御名に自分の人生の基を置く人々が必要です。
嫌われることを避けて口をつぐむよりは、嫌われることを恐れないで語り続けたいのです。
どんなにばらばらにされても、そこから再生していく生命力が、クリスチャンには与えられています。
主に感謝して、歩んでいきましょう。