恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2025.6.22「みことばを基(もとい)として」(Ⅱ歴代4:1-22)

 みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回のメッセージの中盤で、クリスチャンが仏式葬儀に出席した際の「焼香」について触れています。
誤解がないように言うと、「焼香をすることはクリスチャンとして正しいかどうか」ではなく、
「正しいと思う人も、正しくないと思う人も、それは自分で考えての結果なのか」を問いかけています。
焼香することも自由ですし、しないことも自由です。
それはそれぞれが「聖書から」判断してのことになりますが、聖書には焼香については一切書いていません。
今の時代に起きていることは、聖書を原則として、自分で考えていかなければなりません。
聖書は、考えなくてもそのまま実践すればうまくいくというような、ハウツー本ではないのです。
「○○は正しい・○○は間違っている」について、初めから答えありきで決めつけていくのではなく、
聖書を自分で読み、その原則をよく吟味しながら、自分で考えて、決めていこう、というメッセージです。

 残念ながらカルト化の傾向がある教会が新潟にも増えています。
そのような教会では、牧師による「説教」がそのまま「みことば」として権威化される傾向にあります。
牧師の解釈にすぎないものが、あたかも聖書そのもののように絶対化され、
信徒は粛々とそれに従い、しかもそれがクリスチャンとして当然であると疑わないようになっています。
自分で決めることを極力避けようとしている今の時代の中で、聖書はすぐに答えを与えてくれる虎の巻ではありません。
答えを間違えても、神はそこからまた再チャレンジさせてくださる。だから恐れずに自分で考え、決断し、進んでいける。
新しいことへのチャレンジが萎縮している社会の中で、聖書は積極性と創造性を与えてくれます。
それでは、興味のある方はメッセージ本編をご覧ください。ありがとうございました。

 

(「YouTubeで見る」と聖書朗読・メッセージの開始タイミングに直接ジャンプできるので便利です)

 

 今日の聖書箇所は、語るほうも聞くほうも拷問のように思えるところかもしれません。

なんでわざわざこんなところから語るのかと言われると答えに詰まるのですが、私たちの会堂建設に合わせて、ソロモンの神殿建設から少しずつ語っていくと、どうしてもこの3章、4章という、無味乾燥な設計図、仕様図のようなものを通らなければならないのです。

私の説教者人生の中で、ここから語ることは、最初で最後かもしれません。

それくらい、まず礼拝説教で取り扱われることはない聖書箇所と言えます。

しかし聖書の中にこうして神殿とその付属物に対する仕様やリストが掲載されているのは、それが私たちにとっても必要であるからです。

神殿の前庭に置かれた祭壇や、祭司のからだを洗い清める浴槽、ここでは「海」と呼ばれています。

またいけにえを洗う場所も必要で、これは洗盤と言われています。

そのほか、燭台、机、ともしび皿だとか、細かいものすべてがここに書かれています。

 

 私たちにとってはまさに眠くなるだけの備品リストに見えるかもしれませんが、ここに書かれているものの中で何一つ欠けてはいけない、逆に言えば、ここに書かれているもの以外は一切神殿に持ち込んではならない。

そのような緊張感も、ここから読み取ることができるのです。

神さまは、私たちにこの4章を通して何を伝えようとしているのでしょうか。

まず結論から先に言えば、主はどの時代においても、私たちがみことばを基準としつつ、信仰を働かせて、自ら考えていくことを願っておられます。

この1節に書かれてある、青銅の祭壇を例にとって、考えてみたいと思います。

 

 先ほど触れたように、細かい仕様やリストが記されているのは、ここにあるものが欠けることがないように、そしてこれ以外のものを持ち込むことがないように、というものでした。

しかしそもそもこの祭壇からして、かつてモーセがこのように祭壇を作りなさいと命じられ、記録されていた祭壇から、はるかにかけ離れた大きさのものとなっています。

荒野で命じられた祭壇は、5キュビト四方、すなわち日本で言うと一間四方、約2mの正方形です。

これ以外の仕様で祭壇を作ってはならないと命じられていたわけです。

 

 しかしソロモンが作った祭壇は、モーセが荒野で与えられた設計よりもはるかに大きなものでした。

幅と長さは20キュビト、高さは10キュビトとあります。20キュビトは約5間ですので、このときわ会堂で言いますと、廊下を含めた向こう側の部屋を合わせた幅がちょうど5間。

長さですと玄関まで含めた5間ですね。

高さのほうは二階の天井より少し低いくらい。

つまり、祭壇はこのように作らなければならないと言われていたものよりも何倍も大きなもの、命令から外れたものをソロモンは作りました。

ではそれはみことばを無視した、守らなかったということになるのでしょうか。

そうではないですね。

荒野での移動式の幕屋と、王国における建物としての神殿、その違いに応じて、祭壇の大きさや仕様もそれにふさわしいものを、信仰を働かせながら彼は考え、作ったのです。

当たり前と思うかもしれませんが、その当たり前ができなかったのが、イエス様の時代のパリサイ人や律法学者です。

自分たちが作り上げてきた決まりや、律法の固定した解釈にこだわり、イエスさまを律法の破壊者として拒絶しました。

キリストはむしろ、杓子定規に聖書を解釈して逆にいのちの喜びを奪っている彼らをあわれみ、律法が真に人を生かすものとなることを願ったのですが、彼らはそれを受け入れなかったのです。

 

 聖書は、どんな時代においても、真理です。

しかし聖書は、原則を教えていますが、その適用については、それを受ける者たちが自分で考えていかなければなりません。

みことばを神のことばとして受け止めつつ、いま自分を取り巻いている時代や環境において、どのように解釈し、適用していくかは、私たち自身にゆだねられているのです。

この私たちとは、牧師ではありません。

信徒ひとり一人です。

聖書は原則を教え、私たち牧師はその原則をどのように読み取るかを教えます。

しかしそれを実際に適用していくのは、みなさんひとり一人です。

あるクリスチャンが、仏式の葬儀に参列することになりました。

葬儀の中で、焼香というものがあります。

焼香は偶像礼拝だからやってはいけないと助言する人がいました。

しかしある人は、焼香を通して遺族の悲しみに寄り添うことができるのだから行うべきだと助言しました。

葬儀には参列せずに、葬儀の前に行って、そこで慰めを語るべきだという方もいました。

みんなクリスチャンです。

どれが正しいのでしょうか。

 

 それは聖書には書いていません。

もし聖書に書いてあると言う人がいたら、それは聖書の解釈にすぎないものを聖書と言っているにすぎません。

聖書のどこにも焼香という言葉は出てきません。

カナンの偶像礼拝を仏式の葬儀と同一視することもできません。

そこで私たちは、自分に今まで語られ、心の中にたくわえられてきたみことばを、自分自身でどのように適用していくかということが問われるのです。

そこに、外からの答えはありません。

牧師がこう言った、先輩がこう言った、ということではなく、いま私は目の前の問題に、どのようにみことばの原則を用いて、具体的な行動をとるべきかということが、それぞれに求められるのです。

ですから答えは外にではなく、内側にしかありません。

そこに自らの足で立つことができるのが、成熟したクリスチャンです。

 

 ソロモンがこの4章の中で作ったものは、私たち現代のクリスチャンから見たら、あれと思うものが少なくありません。

祭壇については、大きく作るのはわかりますが、祭司が自分のからだを洗うための「海」については、ここまで凝ったものを作る必要があるのか、と思います。

設計を簡単に説明すると、イスラエル12部族を象徴する12頭の牛が、お尻をくっつけた状態で頭は外側に向けて、ちょうど時計盤の数字のように並び、直径5mの円形プールを支えていました。

「いやだ、何これ・・・・」と言った人がいても不思議ではありません。

しかし、この後に書かれている柱の細工にも共通することですが、神はこれを喜んで受け入れてくださいました。

それは、設計者ソロモンと、制作者フラム、彼らの心にある思い、願いを主はご覧になって、それを喜ばれたからです。

 

 私たちが神さまのために行うことが神さまの役に立つのかはわかりません。

あるいは私たちが神さまのために作るものが神さまの栄光を証しするものになるのかも、私たち自身にはわかりません。

しかし神さまはその結果よりも、私たちの心をご覧になり、その思いを喜ばれるお方です。

 

 この青銅の海や、柱はやがてイスラエルが堕落してバビロンに滅ぼされたとき、すべて打ち砕かれてバビロンに持って行かれました。

そこで青銅が溶かされて、バビロンの偶像に作り変えられてしまったのかもしれません。

しかしだからといって、ソロモンの作ったものが無駄であったということではありません。

結果がどうなろうと、ソロモンとフラムが協力して、イスラエルの神に栄光をささげようとした、その思いを神は心から喜んでくださいました。

私たちもそうです。

みことばを基(もとい)として、信仰を働かせて、自分自身で考え、行動したこと、それがたとえ失敗だと言われても、それを神は喜ばれ、私たちのうかがい知れないご計画をもって、栄光を表してくださることでしょう。