みなさん、おはようございます。先週の礼拝メッセージに引き続き、今週も使徒の働きの中から、大人も子どもも一緒に、同じみことばを味わっていきたいと思います。
先週のメッセージでは、聖霊を受けた弟子たちが多くの人々の前で力強くイエスの復活を証しし、その日だけで三千人の人が救われた出来事を学びました。
一日で三千人、さぞや教会は活気に溢れたことだろうと私たちは想像するかもしれません。
しかしその三千人は、ほとんどがもともと外国で暮らしていたユダヤ人であり、祭りのためにエルサレムに滞在していた人々でした。
本国では家族や親族が暮らしています。
ですからいきなり三千人教会になったというのではなく、数日間で、ごく基本的な教えを使徒たちから受けた後は、本国へ戻り、そしてそこでイエス・キリストへの信仰を守っていったのだろうと思います。
しかし想像してみてください。
家族や親族の中で、イエスさまを信じているのは自分一人だけ。
私たちの場合には、教会に行けば、こうして同じ信仰の友がいますが、二千年前の彼らはそうではありません。
帰って行った先で信仰を守っていくのは大変なことだっただろうと思います。
しかし大変ではあったでしょうが、その内側には、確かに聖霊の息吹がありました。
私たちがイエス・キリストを信じるとき、心の中には平安があります。
しかし実際の生活の中では、とくに家族関係や人間関係において、戦いや葛藤が生まれます。
逆に言えば、戦いや葛藤がないところには、成長の機会もないと言えるのではないでしょうか。
今日の聖書箇所は、ペテロとヨハネが神殿へ祈りに向かったとき、門の前に座っていた、生まれつき足のきかない人を、イエスの御名でいやした奇跡の後に続く話です。
イエスの御名が語られるとき、私たちのたましいは生き返ります。
みこころであれば、生まれつきのハンディキャップでさえこうして作り変えられることも起こるでしょう。
それは正しいこと、良いことのように思いますが、祭司長やサドカイ人といった宗教指導者にとっては、極めて不愉快な出来事でした。
イエスを十字架にかけて殺し、やれやれ一安心と思っていたら、今度はあのとき逃げ出した弟子たちが、まるでかつてのイエス・キリストと同じように人々をいやし、大胆に福音を語るようになりました。
祭司長たちはペテロとヨハネを捕らえます。
大祭司の一族や最高法院の人々も集まって話し合い、使徒たちを脅します。
しかしペテロは彼らに高らかに宣言しました。
イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。
天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名はどこにもないのです。
だから私たちは、これからも、何があっても、このイエスの御名を語り続ける、と。
世の人々は、クリスチャンが黙っていれば喜びます。
クリスチャンの語る言葉は人々に罪を意識させるからです。
それは、ひとり一人のクリスチャンの中には確かに聖霊が生きておられ、その聖霊がことばを越えて語られるのです。
たとえ語る言葉がみことばそのものでなくても、クリスチャンの人生観、価値観、あらゆるものがこの世とは反対側にあります。
だから、黙っていれば私たちは世の友でいられるでしょう。
でもそのような友は真の友ではありません。
真の友はいのちをかけて、滅び行く人に忠告します。
人畜無害なキリスト者は、世を腐敗から防ぐことはできません。
決して大きなことを語る必要はありません。
「ナザレ人イエス・キリストの御名」。
それを語り続けるのです。
ここで私たちは、「ナザレ人」という言葉について考えてみたいと思います。
旧約聖書には「ナジル人」という言葉があり、それは生まれたときから神さまの働きのために人生をささげた人のことを指します。
しかしペテロがここで言っているのはナジル人ではなくナザレ人、ナザレ出身の人間、という意味です。
当時、ナザレという町、そしてナザレ人という住民のイメージは、ユダヤ人と外国人との混血によって生まれた、ろくでもない人々、というものでした。
ヨハネの福音書に、ナタナエルという人が、アンデレというイエスの弟子からイエスのことを紹介されたとき、ナタナエルは最初こう言うんですね。
「ナザレから何の良いものが出るだろう」。
しかしペテロはあえてこの「ナザレ人」という言葉を何度も繰り返して、イエスのことを語ります。
なぜでしょうか。
それは次のことを伝えるためにです。
私たちの救いは、人々がほめたたえ、憧れるものの中にはない。
むしろ人々に蔑まれ、貶められた、そのようなものの中にこそ、本当の救いが隠されているのだ。
「この方以外には、だれによっても救いはない」。
この方こそ、ろくでなし、人でなしというイメージのナザレ人、イエス・キリストであるのです。
キリストは自らしもべとして仕えられ、ご自分の力を誇ろうとはされませんでした。
使徒がイエスを「ナザレ人」と語っているところは聖書に何度も出てきますが、「世界の王」と語ることは一度もありません。
「世界」も「王」も使徒の働きの説教にはほとんど出てこない。
ナザレ人で十分なのです。
ナザレの王ではなく、ナザレ人で十分なのです。
地上の誇りなどいりません。
神の大いなる力が私たちを覆うために、私たち自身は小さな器のままでいいのです。
その小さな器がこぼれ、世を満たすまでに神のみわざが注がれることを求めようではありませんか。
私たちの教会の会堂建設がいよいよ着工ということが目の前に現れてきて、私はどこか心が大きくなってしまっているということをしばしば内側に示され、反省することが多くなりました。
確かに教会が新しく会堂を建てるということは祝福ではありますが、それが高ぶりを生み出す機会にもなりえます。
私たちは小さな器に過ぎず、しかし小さな器であることを自覚するときに、その小さな器を神は大いなるみわざのために用いられることを忘れずにいきたいと思います。
今日の聖書箇所の終盤、11節で、ペテロは旧約聖書の詩篇から、こう語っています。
「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです」。
要の石、別名「礎の石」とも呼ばれますが、これは今日でも建築用語として使われています。
「要の石」を英語では「コーナーストーン(cornerstone」と言います。
日本では礎石と聞いて思い浮かべるのは大きなコンクリートの土台かもしれませんが、英語ではまさに「隅(コーナー)の石」です。
本当に大切なものは目立たない隅にこそあります。
私たちは、この世ではナザレ人です。
弱く、さげすみを受ける人生です。
しかしやがて天に迎え入れたとき、地上での評価、今までの人生での経験、あらゆるものは逆転します。
もし私たちが、イエス・キリスト以外に救いはない、というこの一筋の信仰告白にいつまでも拠り頼んで生きていくならば、神はこの地上において、小さな器を用いて、いくらでも大きなみわざを成し遂げてくださることでしょう。
イエス・キリストがナザレという小さく、蔑まれたところから生まれ、そして使徒たちがそれを誇りとしつつ、世界へ出ていったことを心にとめながら、私たちも今いる小さな場所から始めていきましょう。