今日はペンテコステの日です。ペンテコステとは、イエスさまの弟子たちに聖霊が与えられキリスト教会が誕生した日です。
この2章より前に語られていることですが、イエス様が天に上られる際、弟子たちに対して聖霊が来られるのを待ちなさいと言われました。
そこで弟子たちは一緒に集まって祈り続けていると、その十日目、五旬節という日にあたりますが、このペンテコステの日に聖霊が炎のように弟子たちに下りました。
すると彼らは、集まってきた人々がもともと暮らしている、外国の言葉で語り出したのです。
これはクリスチャンの中ではよく知られている出来事ですが、実際には、聖霊についてよくわからない、というクリスチャンも決して少なくありません。
ある方から真顔でこんな質問をされたことがありました。
イエス様が私たちの中にいて、聖霊も私たちの中に住んでおられると言いますが、それだと神さまが二人私の中にいるということですから、もしかしたらイエス様の別名が聖霊なんでしょうか、と。
そこまでとはいかなくても、聖霊なる神について、どうもよく分からない、という人は多いのではないでしょうか。
私たちクリスチャンが信仰について疑問を持ったとき、それを解消する唯一の方法は聖書に立ち戻ることです。
まず今日のペンテコステの箇所から聖霊について言えるのは、聖霊はどんなときもみことばと共に働かれるお方であるということです。
私たちがみことばを理解できるように悟りを与えてくださるお方です。
知らずに罪を犯したとき、それは罪だと、みことばを思い起こさせて悔い改めに導いてくださるお方です。
誰かと一緒にいるとき、今この時こそ、みことばを直接語るチャンスだ、と教えてくださるのも、聖霊です。
聖霊の力というと、奇跡を思い浮かべる人が多いのですが、聖霊はただ奇跡を起こす方ではなく、人々をみことばに導くために奇跡も用いられるお方である、と言えます。
二千年前のペンテコステの日、弟子たちは聖霊の力によってさまざまな国の言葉を語りました。
当時は祭りの真っ最中で、ふだんは外国に散らされて生活しているユダヤ人たちが、そのときだけエルサレムにたくさん集まっていました。
そこで人々は弟子たちが自分のふるさとの言葉で語っているのを聞くのです。
延々とそれぞれの地名が挙げられた後、11節で人々が言っている言葉に注目してください。
「それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」。
ここでのポイントは、「神の大きなみわざを語るのを聞く」ということです。
ガリラヤ出身の弟子たちが外国語の言葉で話すこと自体が神の大きなみわざではないのです。
本来の大きなみわざ、それこそが、私たちの知っている福音です。
イエスさまが私たちのために命を捨ててくださったがゆえに、私たちは永遠のいのちを与えられた、という福音です。
そして私たちも、この福音を語ろうとするとき、必ず聖霊が内側からも外側からも助けてくださるのです。
聖霊は、私たちが聖書をよくわかるために常に働いてくださる、神ご自身です。
イエスさまは聖霊を「助け主」と呼びました。
私たちが困難にあるとき、実際に助けてくださるだけではなく、私たちがみことばを理解することができるように助けてくださるのが、聖霊です。
復活したイエスさまが天に戻られたのはイースターから40日後、つまりペンテコステの日からわずか十日前のことでした。
そのときの弟子たちは、イエスさまに対して「いまこそイスラエルを再興してくださるのですか」と質問するほど、まだ救いや神の国についてきちんと理解していませんでした。
しかしこのような弟子たちが聖霊を受けたとき、聖書に述べられている神のご計画を理解する者となったのです。
それはまさに聖霊によって人は内側から作り変えられるという、奇跡そのものでした。
ペテロを例にとって、聖霊の働きについて考えてみましょう。
14節では、「ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた」と語られています。
立って、声を張り上げ、とあるように、聖霊は私たちの言葉に確信を与えます。
そしてペテロはこの後、聴衆に対してイエスを語るとき、何度も、「あなたがたが十字架につけたイエス」と表現しています。
しかしイエス様を十字架につけた、という意味ではペテロ本人がその張本人です。
イエスさまを見捨てて何度もそんなやつは知らない、と言ってしまったことを、本人も決して忘れたわけではないでしょう。
しかし彼は聖霊を受け、聖書を正しく悟ったときにわかったのです。
過去に犯した罪で、自分を責め続けることより、罪は罪として悔い改めたうえで、自分に与えられた宣教の使命に生きるべきである、と。
私たちの人生観を変えて、心を作り変えていくこと、それは人にはできないこと、まさに神ご自身である聖霊にしかなしえないことです。
私たちはその恵みの中で、今日も明日も生きていきます。
今日、聖霊についての誤解により、教会を変えてしまうクリスチャンや働き人が後を絶ちません。
彼らの内の一人は、「聖霊の力をいただけば、信仰生活に喜びが満ちあふれる」と言いました。
しかしその方の言う「聖霊の力」とは病気を治し、悪霊を追い出すという話だけでした。
そしてそれができないクリスチャンは、聖霊をいただいていないというのです。
そんな考え違いをしていたら、自分が神に喜ばれていない、名ばかりクリスチャンで、もっと伝道しなければ、もっと神に喜ばれる者にならなければ、という信仰の皮をかぶった、強迫観念の生活になってしまいます。
信仰とは、平安の実を結ばせるものです。
「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません」と聖書にははっきり書いています。
私たちは聖霊の力をいただいたからこそクリスチャンになりました。
もっともっと、と自分で自分の尻を叩く生き方は、キリスト教よりも新興宗教に近いものです。
聖霊は神ご自身です。
人格を持った、分かつことのできないお方です。
救われたときに聖霊をいただいたけれど十分ではないからもう少し注いでください、ということはナンセンスです。
私たちが救われたとき、ご自身をすべて私たちの中に献げ切ってくださった方、それが聖霊なる神です。
しかし私たち自身が、自分の中に聖霊が生きていることを忘れて、聖霊の声が聞こえなくなってしまうことがあります。
そんなとき、聖書を読みたくなくなったり、読んでも心に入らなかったりするものです。
だから、聖霊に呼びかけながら祈ります。
どうかあなたが私の心を砕き、私の心を作り変えて、聖書を私に悟らせてください、と。
そのときに、聖霊と聖書が一つとなって私たちの生活を変えていくのです。
この一週間も、私たちはみことばと聖霊が自分の中に生きているということをかみしめながら、歩んでいきましょう。