みなさん、おはようございます。まず14節をご覧ください。
「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです」。
天の御国は、いわゆる天国のことではありません。
天国は、私たちが死んでそこに行くまで、実際に体験することはできません。
しかし天の御国は、すでに私たちが経験しているものです。
イエス・キリストを信じた者たちの中に生まれる、神への信仰。
しかしイエス様は、それを信仰ではなく、「御国」という言葉を使います。
その理由は、私たちがイエス様を信じたときに生まれる信仰は、まさに天の御国というほどに、果てしない、大きな喜び、期待、楽しさを味わわせてくれるものだからです。
ですから天の御国とは、本来、楽しくて楽しくてたまらないものです。
ちっぽけな私の中に、イエス様を信じたことで、果てしない神の国が生まれている、ということ。
これを聞いて、ワクワクしないということがあるでしょうか。
それを踏まえて、14節に戻りましょう。
「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです」。
イエス様を信じた私たちの中には、無限の広さと深さを持つ、神の国が生まれました。
そこに神様は、ご自分の財産を預け、旅に出て行ったとあります。
預けた財産は、5タラント、2タラント、1タラント。
1タラントは現在の金額に直せば六千万円、5タラントならば三億円です。
しかし神様は、三億円を運用して六億円に増やしたしもべにこう言うのです。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう」。
三億円をわずかな物と言ってしまうのが、ここに出てくる主人、つまり神様です。
それに対してみなさん、いえ私たちは、三億円などわずかな物だと言えるでしょうか。
きっと言えないと思います。
しかし私たちひとり一人の中に、イエス様を信じたときに無限の神の国が生み出され、そこに神様はひとり一人に違った賜物を与えてくださり、それは三億円という金額さえも小さい小さいというようなものだと聖書は言っているのです。
私たちの中には無限の領域があります。
ひとり一人に無限の価値があると言い換えても良い。
キリストを信じた今、私たちは神様の目にそれほどまでに大きく、尊く、神様にふさわしいしもべとされていること、それを聖書は私たちに語っているのです。
次に15節をご覧ください。
「彼はそれぞれその能力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント、もう一人には1タラントを渡して旅に出かけた」。
「彼」というのは神様、タラントというのは、神様のお手伝いをするために私たちが与えられた賜物を指しています。
神は、平等に1タラントずつ与えてはおられません。
それぞれの能力に応じて、ある者は5タラント、ある者は2タラント、ある者は1タラントと変化をつけて与えられます。
不公平だ、と人は言うかもしれません。
しかし神がそれぞれを適材適所、神様がここぞと思う場所に私たちを遣わし、これぞと思う賜物を私たちに与えてくださったのです。
与えられた場所、与えられた賜物を十分に生かしていくことを神様は期待しておられます。
先ほど、5タラントを現在のお金に直すと、三億円と言いました。
2タラントであれば、一億二千万円になります。
しかし今日の聖書をよく読むと、5タラントのしもべも、2タラントのしもべも、神様は同じことばでほめています。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」。
もう一度言いますが、5タラント預けられて5タラント稼いだ人も、2タラントの人も、まったく同じことばで評価されています。
これは、神様が、いくら預けていくら稼いだか、その数字の違いを見てはいないということです。
預けられたもの、つまり私たちそれぞれに与えられた能力を、とにかく神様のために生かして用いようとすること。
数字ではなく、預けられたものを神様のために用いようという、心の中の思いを見ておられるのです。
私は、自分で言うのも何ですが、書記や会計のような事務は比較的得意です。
説教は、内容はともかく、声だけは張りがあってよいとほめられます。
しかし個人伝道ははっきり言って苦手です。
しかし苦手だからこそ、努力します。
考えてみれば、熱いのが苦手な消防士だっているし、接客が苦手なラーメン屋の親父だっています。
苦手ということも含めて、私たちはそれぞれの場所で与えられた仕事に生きています。
どんな賜物が与えられているとしても、これを神様のために用いていきます、と決意していくならば、神様は喜んでそれを生かしてくださいます。
そして主人の喜びをともに喜んでくれ、と言われるのです。
与えられた賜物は違っていても、それを神様のためにいかに生かしていくかこそ大切なことです。
だからこそ、最後に出てくる、1タラント預けられたしもべの姿を警告としなければなりません。
1タラントは六千万円、私たちの会堂建設の総予算よりも多い金額です。
決してわずかではありません。
しかしこのしもべは、5タラント、2タラントというほかのしもべに預けられたものと比べて、この1タラントをわずかなものと考えました。
これを土の中に埋めて、主人が帰ってくるまで、そのままにしていたのです。
私たちは、他人と比較するときに、与えられているものの大きさも見えなくなってしまいます。
このしもべが、他人と比べるのではなく、神様だけを見上げていれば、その1タラントをどのように増やすかを考えたことでしょう。
どのようにして神様を喜ばせることができるだろうか、ということを考え続けたことでしょう。
彼は1タラントを失うことを恐れたのかもしれません。
しかし神のものは、神のために用いるならば、失われることはありません。
神から与えられたものが本当に失われてしまうのは、失敗を恐れて何もしなかったときです。
なぜなら、そのようなしもべは、持っていた物も神に取り上げられてしまうからです。30節にはこのようにあります。
「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」。
これは恐ろしい言葉です。
しかしこれは、このしもべが役に立たないから、永遠の滅びに突き落とされる、という意味ではありません。
ですが、しもべにとって、主人のために働くことが喜びです。
その喜びを受け取る機会を取り上げられてしまうのです。
もし私たちクリスチャンが与えられた賜物を生かして神様を喜ばそうとしないならば、その信仰はうわべだけのもの、義務的なもの、喜びの感じられないものになってしまいます。
キリストがいのちを捨ててまで救ってくださったほどの者たちが、自分にゆだねられた賜物の大きさに気づかないほど、悲しいことはありません。
ですから、私たちは、自分に与えられた賜物がいかに尊く、豊かで、かつ私たちにふさわしいものであるかをおぼえながら、この賜物を神様の働きのために生かしていきましょう。
私たちの中には、イエス様への信仰によって、無限の神の国が生まれています。
決してこじんまりした人生では終わりません。
与えられた賜物を神様のために用いていきましょう。
私たちにはそれができるのですから。