みなさん、おはようございます。約二十年前、新婚旅行で北海道に行きました。
旭川の三浦綾子記念館だとか、今は世界遺産になっている小樽の倉庫街とか、いろいろな所に行きましたが、個人的に一番面白かったのは登別のクマ牧場でした。
恐ろしいヒグマたちが見事に餌付けされていて、観光客に向かって手を振るわ、どこで覚えたのか大開脚のポーズをとって自己アピールするわ、両手をお祈りの形で組んでお願いするわ、そこまでやらなくてもいいのに、と思うほどです。
今日の週報の表紙は、そのときに私が撮った写真です。
少々ピンボケ気味ですが。
クマたちは、客がいないときはもっぱら寝そべったりしているのですが、客の姿を認めるとやおら起き上がり、自己アピールを始めます。
人間の注目を少しでも多く惹きつけたものがエサを投げてもらえることを知っているのです。
今日の聖書に登場するバルティマイも、クマと一緒にするのは失礼ですが、同じでした。
イエス様が通られると聞くと、突然大きな声で「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫び始めました。
どんなにたしなめられても、イエスのおられるかもしれない方向に向かって叫ぶことをやめませんでした。
彼は目が見えない物乞いであったとあります。
物乞いは、ふだんは声を上げません。
ただ黙って、道行く人がいくらかの銅貨を投げ込んでくれるのをひたすら待っています。
今日もバルティマイは、そのようにだまり込んだまま、人々のあわれみにすがりながら一日を過ごすはずでした。
しかし彼は、今目の前を歩いている集団の中に、ナザレのイエスが混じっているということを耳にしました。
そして今までの沈黙が嘘のように、ひたすら「ダビデの子よ、あわれんでください」とひたすら声を上げて叫び続けたのです。
登別のクマたちは、親が見たら泣くような大開脚ポーズで、まさにヒグマのプライドを捨ててまで観光客の注目をひいて餌にありつこうとします。
目の見えないバルティマイには、前を歩いている人々のどこにイエスがおられるのかわかりません。
だからひたすら、あらゆる方向に向かって大声で叫び続けました。
それはなんとかしてイエスの注目をひくためです。
しかしクマとバルティマイは明らかにひとつの点で違っていました。
クマは、観光客が投げるエサを巡っての競争に敗れても、次の機会があります。
しかしバルティマイは、この機会を失ったら、自分の人生を変えるチャンスはないということを知っていました。
だから彼は死に物狂いで叫び続けたのです。
人生を変えたいと考えている人々はたくさんいます。
しかし本当に変えることができた人は多くありません。
なぜならば、叫ぶべき相手を間違えているからです。
生活の問題や、具体的な課題を訴えることは決して間違っていません。
しかし親に叫ぼうが、行政に叫ぼうが、善意ある人々に叫ぼうが、それは一時しのぎでしかないのです。
システムを変えるには、責任者を呼ばなければなりません。
人生を変えたいならば、人生の責任者に対して叫ばなければなりません。
そして私たちの人生の責任者は、じつは私たち自身ではなく、この社会そのものでもなく、私たち一人ひとりを作られた神さまです。
バルティマイは、生まれたときから目が見えない者として、過酷な現実の中で生きてきました。
しかし彼は本当に叫ばなければならない方がどなたかということを知っていました。
人生を変えたいならば、神に向かって叫ばなければなりません。
自分の力を尽くして、神に叫ばなければなりません。
しかしバルティマイは、ナザレのイエスが人生を変えるお方であるということは知っていても、そのイエスがどこにいるのかはわかりませんでした。
目が見えなかったからです。
だから彼はあらゆる方向に向かって大声で叫びました。
しかし私たちは神がどこにいるか、救いがどこにあるかを知っています。
神はこの、(聖書を手に取って、パンパンと叩く)聖書の中に生きておられます。
ここに入るほどの小さな方だという意味では決してありません。
永遠に変わらない、聖書のことばを通して、私たちを救いに招き、信仰の醍醐味を与えてくださるのです。
だから、もし私たちが「私を救ってください」という心の叫びをもって、この聖書と取っ組み合うならば、必ず新しい人生が見つかります。
しかしじつはバルティマイが叫ぶ前から、イエス・キリストはこのバルティマイを救いへと選び、目を留めておられました。
みなさんに対しても、そうです。
神はこの世界が作られる前からみなさんひとり一人を選び、救いへと定めておられます。
しかし神があなたに目を留めておられるというのは、私たちが何もしなくても、神のほうから手を差し伸べてくださるということではありません。
バルティマイは叫びました。
私の救いはナザレのイエスにしか与えられない。
だからこの時を逃してはならないのだ、という必死な思いで、声をからして叫び続けました。
そんな彼を喜び、イエス様は招いてくださいました。
そのとき、バルティマイは「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあります。
目の見えない物乞いが上着を脱ぎ捨てる行為、それは生活の支えを捨てる、ということに他なりません。
バルティマイにとって、上着は生活の基盤を象徴するものでした。
しかし彼は、生活基盤よりももっと大切なもの、それはナザレのイエスそのものだということを知っていたのです。
今までの人生において、幾度となく自分に失望し、人間関係に疲れ、人生に絶望したという人もいるでしょう。
しかしそのような経験のひとつひとつさえ、私を救うことのできるのは人ではなく、ただ神であるという希望に繋がります。
だとしたら、人生に無駄なものなど何一つありません。
あらゆるものが、神からのプレゼントとして感謝をもって受け止めることができます。
このバルティマイのいやしの出来事は、イエス・キリストが十字架での死に向かう直前の出来事でした。
バルティマイが上着を捨てて、喜び踊りながらイエスの後ろについていった道の終着駅は、イエスが罪人の代わりに死なれた十字架の丘でした。
もし彼がその十字架への道からそれていったならば、聖書の中に「バルティマイ」という固有名詞が記録されることはなかったでしょう。
しかし彼の名前がはっきりと残されていることは、彼がクリスチャンとしてその後も信仰を捨てずに歩んでいったことを指しています。
いやされた者は、喜んでイエス・キリストについていきます。
そしてその道は、いつまでもキリストとともに歩むことのできる、幸せな道なのです。
キリストを信じたらいろいろと大変ではないか、と恐れている者よ!すべてを捨てる決断ができない者よ!信じたとき、私たちは古い自分から新しい自分に生まれ変わる、と聖書に書いてあります。
恐れる者から恐れない者へ。
目の見えない者から目の見える者へ。
憎む者から愛する者へ。
逃げる者から従う者へと変えられていきます。
どうか一人ひとりが、このイエス・キリストを救い主として受け入れて、永遠のいのちの道へと歩むことができるように、お祈りします。