みなさん、おはようございます。復活節第三週のメッセージは、よみがえったイエス様が、弟子ペテロに対して語られたみことばをともに味わっていきましょう。
「ヨハネの子シモン。あなたは私を愛していますか」。
イエス様は、ペテロに同じ質問を三回繰り返しました。
それは彼を責めるためではなく、彼の傷をいやすためです。
かつてペテロは、大祭司の庭で「イエスなど知らない」と三度繰り返しました。
その苦々しい記憶は、三回繰り返される「あなたを愛します」という告白によって、神さまの前に上書きされました。
ペテロが「あなたを愛します」と口にするたびに、ペテロの中では、かつてイエスを知らないとまで言ってしまった自分自身の弱さが、まるでじくじくした生傷のように思い出されたことでしょう。
しかしペテロにとっては生傷であっても、神は、もうそれは過去のこと、わたしはあなたの失敗をすべて塗り直した、と語ってくださっているのです。
神が塗り直したものは、サタンでさえ、それをほじくり返して私たちの心を責めるということはできません。
ペテロも、そして私たちも、数え切れない失敗があったとしても、神はそれらをすべて塗り直してくださって、私たちを、神の働きのために用いてくださいます。
続いてイエス様が語られた言葉は、ペテロの死に方を予告するものであったと書かれています。
「あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。
しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」。
この二ヶ月ほど、私はいわゆる五十肩で、服を着替えるのもなかなか容易ではありません。
優しい妻が着替えを手伝ってくれるのですが、ちょっと手順を間違えると、痛い痛いと叫んでしまって、妻があきれ顔になります。
「若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩けた」というのが、いかにありがたいことでしょうか。
伝説では、晩年のペテロはローマ帝国に捕らえられて、逆さ十字架につけられて殺されたそうです。
そのような自分の死を予告されたとき、ペテロは何を思ったでしょうか。
聖書はそれを記していません。ただこう書き残されているだけです。
「こう話してから、ペテロに言われた。『わたしに従いなさい』」と。
「わたしに従うこと」、それはわたしの十字架を背負って生きる、ということに他なりません。
それは、たとえイエス・キリストのために傷つけられ、殺されることがあったとしても、それでも十字架を背負い続けるということです。
それは牧師にだけ課せられたものでしょうか。
だとしたら、十字架は牧師だけが背負うものになります。
しかしイエス様は、別のところでこう語られていました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。
「だれでも」とあるからには、それは特定の職業にではなく、すべての人に対して向けられている言葉であるわけです。
つまり、あらゆるクリスチャンにあてはまる言葉なのです。
先週の召天者記念会で、改めて思いました。
クリスチャンの人生は、それがどんなものであろうとも、神の栄光を表す。
世の人々は死を恐れ、ひとりで死にゆくことを嫌い、葬式を飾り立てて死を隠します。
しかしクリスチャンは、死を通してでさえ、神の栄光を表すことができる。
死さえも、私が神よりいただいた永遠のいのちに何の手出しもできないことを人々に向かって明らかにすることができる。
これはクリスチャンの特権です。
イエス様はペテロに力強く命じました。「わたしに従いなさい」。
それはペテロだけへの命令ではありません。
主は、他ならぬあなたに向かって言われています。「わたしに従いなさい」。
たとえあなたの人生の終わりがどのようなものであったとしても、あなたがなすべきことはただひとつ、「わたしに従うこと」だけだ、と。
でも、私たちは弱い者です。
従いたいと願いながら、ついイエス様から目を離してしまう弱さを持っています。
ペテロも同じでした。
「私に従いなさい」という、イエス様のまっすぐな瞳から、彼は視線をそらせてしまいます。
彼の目に飛び込んできたのは、イエスが愛された弟子、すなわちヨハネの姿でした。
ペテロは主に尋ねました。「主よ。この人はどうですか」。
ペテロに限らず、私たちはどんぐりのような生き物です。
つまり、どんぐりの背比べという言葉そのまま、しょっちゅう人と比較します。
ある方がこんなことを言っていました。
若い頃は他人が気になって仕方なかった。
年を重ねてようやく他人を気にしなくなったと思いきや、今度は、あの頃は何でもできたのに、と若かった頃の自分を比較している、と。
私たちは他人であれ、自分自身であれ、今の自分と何かを比べずにはいられないのかもしれません。
しかしイエス様は、みことばを通して私たちに言われるのです。
「それがあなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と。
イエス様が求めていることはただ一つ、「わたし、イエス・キリストから目を離さないでいなさい」ということ。
十字架を背負って、目の前を歩いているイエス様の背中を見つめながら、決して目を離すことなく、自分の十字架を背負い続けていくならば、私たちは約束されている栄光の冠を受け取ります。
神は、ご自分の愛する者たちには、それぞれに、違った人生を用意しておられます。
ペテロはヨハネにはなれないし、ヨハネもペテロにはなれません。
同じように、私はペテロになる必要はないし、他の誰かの複製品のようなクリスチャンになる必要はありません。
尊敬し、ああなりたいと思いはしても、実際には同じものにはなれないし、なる必要もないのです。
イエス様がペテロに語った、「年を取ると、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行く」という言葉は、ペテロが最後には拷問を受けて死んでいった姿を表しています。
一方ヨハネは、最後にはパトモス島という島に流されて、そこで生涯を終えました。
しかし彼は、そこで記したヨハネの黙示録の中で、「私は神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた」と書いています。
彼にとって、権力者に捕らえられ、島流しにあったことも、それは神の恵みと証しのためでした。
ペテロとヨハネは、与えられた人生は違いましたが、二人ともイエスから目を離さず、イエスに従ってこの地上を去っていったのです。
そして神は、私たち今日に生きるキリスト者にも同じことを求めておられます。
他の人の信仰をまねたりうらやんだりする必要はない。
私たちがまねるべきお方はただイエス・キリストのみ。
見つめ続けるお方はただイエス・キリストのみ。
イエス様は今日も、私たちに呼びかけます。「あなたは、わたしに従いなさい」と。
最後に、パウロの言葉を紹介して、説教を終わります。
「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」。
私たちは誰のために生きて、誰のために死ぬのでしょうか。
あなたの人生をただキリストに置くときに、あなたも、あなたの家族も救われます。
キリストから目をそらさずに歩んでいきましょう。