みなさん、おはようございます。復活節第二週の礼拝となりました。
今日の礼拝説教は、教会学校で取り扱っているのと同じ箇所から語ります。
イエスがよみがえられた日曜日の夕方から物語は始まります。
日本では一日は夜明けから始まりますが、昔のイスラエルでは、逆に日没から一日が始まりました。
創世記の1章に天地創造の記事がありますが、そこでは一日ごとに「夕があり、朝があった」と語られています。
「朝があり、夕があった」ではないんですね。
日本の朝の風物詩、ラジオ体操はこんな歌で始まります。
「新しい朝が来た、希望の朝だ」。
もしイスラエルにラジオ体操があれば、「新しい夕が来た、希望の夕だ」となるのでしょう。
しかしこの時、弟子たちの心には希望などありません。
新しい一日がこれから始まるというのに、彼らは扉に鍵をかけて、お互いにため息をついていました。
それは、ユダヤ人を恐れていたからです。
イエス・キリストを十字架につけて祭司長や律法学者が、今度は自分たちを捕らえるためにローマ兵を送りこんでくるのではないか。
その恐れから、彼らは扉に鍵をかけていたのです。
しかし振り返ってみてください。
この朝、すでにイエス様はよみがえられたのです。
女たちが墓で御使いに出会い、ペテロやヨハネは墓に走って行って、墓には、イエス様の亡骸を包んでいた亜麻布しか残っていなかったことを確認しました。
それから半日も経っているのです。
しかしイエス様がよみがえられたにもかかわらず彼らは恐れに支配されていました。
なぜでしょうか。
イエス様がよみがえられたことを信じなかったからです。
そして彼らはイエス様のよみがえりを信じない代わりに、別のものを信じていました。
それは、ユダヤ人が今度は自分たちを捕らえるかもしれないという恐れです。
じつは祭司長や律法学者たちには、弟子たちを捕まえる権威などありませんでした。
さらに言えば、ユダヤ人たちにはもともとイエス・キリストを捕らえる権威もなかったのです。
だから彼らは群衆を使ってピラトを揺さぶり、自分たちではなくローマ総督が自分の権限でイエスを十字架刑にするように仕向けたのです。
少し話が難しくなってきましたが、要するに、弟子たちは、恐れなくてもよいものを恐れていました。
本来は弟子たちを捕らえることなどできないユダヤ人たちを恐れて扉に鍵をかけていました。
これはたいへん象徴的です。
私たちは、まことの神様、あるいは救い主イエスという、本当に恐れなければならない方を恐れないときには、恐れなくてもよいものを恐れるようになってしまうのです。
なぜかというと、人間は何かを恐れなければ生きていけない、弱い生き物だからです。
本来恐れる必要などないユダヤ人たちを恐れ、本来恐れるべきである、よみがえられたイエス様を恐れない。
それがこのときの弟子たちの姿でした。
何とあわれな姿でしょうか。
力がないからあわれなのではありません。
力に気づいていないからあわれなのです。
よみがえったキリストを信じる者には、世界を変える力も与えられたことに気づかず、自分を無力だと決めつけている弟子たちの姿は、この世で最もあわれです。
しかしそのあわれは、一瞬にして終わりを告げます。
鍵のかかった家の中に、突然、イエス様が現れました。
イエス様は彼らに語りかけます。
「平安があなたがたにあるように」と。
そしてこのあいさつの後、主はご自分の手と脇腹を弟子たちに示された、とあります。
そこにあったのは光輝く肌ではありません。
釘と槍に突き通された穴がぽっかり開いている、痛々しい生傷です。
イエス様はそれを弟子たちに見せながら、「平安あれ」と語られました。
私たちも、聖書を開くとき、そこで同じ経験をします。
聖書の言葉は、その多くが厳しい言葉です。
私たちの罪をえぐり出します。
しかしだからこそ、そこには本当の平安があるのです。
矛盾しているようですが、私たち自身は聖書を通して自分の罪、欲望、愛の限界を思い知らされます。
しかし人間としての私たちはそうであっても、私たちはもうひとつ、イエスを救い主として信じた神の子どもでもあります。
罪の悲しみだけで終わりません。
人間としての自分自身の姿を突き抜けて、私のすべてをまるごと覆ってくださり、御国に着くまで背負い続けてくださるイエス・キリストの慈しみを、私たちはみことばを通して経験します。
弟子たちはまさにそれを経験しました。
イエスの手とわき腹は彼らの恐れを映し出す鏡でした。
しかし恐れに支配され、イエスを見捨てた彼らをイエスは再び弟子として認め、声をかけてくださったという喜びがそこにあったのです。
このとき、イエスは弟子たちに「聖霊を受けなさい」とも語られました。
これはこの時から七週の後に起こるペンテコステを言っているのではなく、いまこのとき、聖霊を受けなさいという意味です。
私たちがイエス・キリストを信じたとき、必ず心の中に聖霊が入ってくださいます。
というよりも、心の中に聖霊が入ってくださらなければ、イエス・キリストを信じることはできません。
だから私たちは自分の中に聖霊が生きておられることを疑う必要はありません。
あらゆるクリスチャンの中に聖霊が生きておられます。
しかしその聖霊を自分の中に閉じ込めて身動きさせないようにしてしまってはいけません。
言うならば、自分の心の中を信仰以外のものでおおばらにして、聖霊がすみっこで縮こまっているようにしてはいけないということです。
信仰以外のもの、それが、この場にいなかったトマスが抱えていたものでした。
トマスだけがこの場にいなかったため、彼は他の弟子たちにこう言いました。25節をご覧ください。
「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」。
英語でトマスという言葉は「疑い深い人」を指します。
それほどまでに悪いイメージがついてしまっているトマスですが、私はむしろトマスはだれよりもまじめな人だったのだろうと思っています。
イエスを見捨ててしまった自分自身を簡単に許すことができないという生真面目さが、このような彼のかたくなな態度と激しい言葉を生んでいるように思えます。
しかしまじめであることは美徳ですが、それでももしそれが私たちの心をかたくなにしてしまうのであれば、神様ご自身に取り扱っていただかなければなりません。
そして、イエス様は実際そのようになさってくださった方です。
八日後、イエスはトマスの前にも現れてくださいました。
そしてこう言われました。27節をご覧ください。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。
このときイエス様は、トマス一人のためだけに現れてくださいました。
他の十人はその証人です。
イエス様は、トマスの心から余計なものを放り出してくださいました。
そして彼はもう一度信仰に立ち返りました。
「私の主。私の神」と叫んだのです。
神は、信じる者を必ず救い出してくださるお方です。
求道者だけではなく、トマスのように、あるいはその八日前の弟子たちのように、信仰のぐらついた者たちに対しても、必ず救い出してくださいます。
一人一人が、このイエス・キリストをいつも心の真ん中において、歩んでいきましょう。