みなさん、おはようございます。今日は復活節、イースターです。
約六週間にわたる四旬節、レントと呼ばれますが、イエス様の苦難をおぼえる40日間が明け、いよいよ今日はイエス様がよみがえられたみことばをいただきます。
午後には子どもたちと一緒に卵探しなどのお楽しみ会も予定されていますが、まずはこの礼拝の中で、みことばを味わっていきましょう。
1節をもう一度お読みします。
「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った」。
なにかほのぼのとした始まりに聞こえますが、じつはこれは危険と隣り合わせでありました。
マタイの福音書によれば、このとき、イエスを十字架につけた祭司長たちは、弟子たちがイエスの死体を盗んでよみがえったと言うかもしれないから、墓に見張りをつけてくださいと総督ピラトに依頼し、ピラトも兵士たちを墓の前に派遣していました。
もしローマ兵に見つかれば、彼女たちも無事ではすみません。
しかし知ってか知らずか、それでも彼女たちは向かったのです。
確かにイエス様は十字架で死なれた。
でも私たちは、最後にイエス様の亡骸に油を塗って差し上げたい。
そんな思いで、安息日の次の朝が明けるや、彼女たちは墓に向かったのでしょう。
3節では、彼女たちが「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていることが記録されていますが、そっちのほうの対策を先にしてから行ったほうがいいのに、と思わないでもありません。
でも、長嶋茂雄監督がよくこう言っていました。
「想念は現実化するんです」。
初めて聞いたときは意味がまったく分かりませんでしたが、確かに想念は現実化するんです。
要するに、「求めなさい、そうすれば与えられます」ということですね。
確かに、人生はあきらめることの繰り返しという部分もありますが、あきらめてもよいどうでもよいことと、あきらめずに強く求めることを見分けることは大事です。
彼女たちはその大事なほうを選びました。
石のふたを誰が開けてくれるか、兵の見張りをどうクリアするか、あまりそういうことは深く考えません。
とにかくイエス様に会いたい。
最後の油を塗って差し上げたい。
その強い求めを、天の神はすべて知っておられました。
そしてあらゆる障害をあらかじめ取り除いてくださっていたのです。
4節にはこうあります。
「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。
石は非常に大きかった」。
見張りの兵士もいなくなっています。
不思議に思いつつも彼女たちがイエスの墓に入ってみると、そこにいたのは純白の衣をまとった青年でした。
彼女たちが非常に驚くと、青年は「驚くことはありません」と、まるでこちらの反応をあらかじめすべて知っているかのようです。
それもそのはず、この青年は神からの特別な使いでした。
御使いは彼女たちにこう語りかけました。
「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。
あの方はよみがえられました。
ここにはおられません。
ご覧なさい。
ここがあの方の納められていた場所です」。
この二千年間、数え切れない人々が、イエスの復活は、本当はなかったのだと主張してきました。
ある者はイエスは十字架で死んだのではなく死にかけていたのであり、墓の中で意識を取り戻した彼は自分で墓を抜け出したのだと言いました。
またある者は弟子たちがイエスの死体を盗み出して復活の出来事を作り上げたのだと言いました。
集団幻覚だったとか言う人もいましたし、女性たちは隣の墓と間違えたのだとか、冗談か本気かわかりませんが、そのように主張した学者もいました。
しかし二千年間、誰ひとりとして、復活はなかったことを証明することはできませんでした。
イエスが墓で仮死状態から息を吹き返したとして、女性たちが三人がかりでも開けられない石の扉を、死にかけた人間がどうして開けられるでしょうか。
もし復活が弟子たちが作りあげた嘘であったとすれば、なぜなぜ彼らは自分で考えたうそのために命をすてることができたのでしょうか。
このような反論をひとつ一つ挙げていったらきりがありません。
復活は、タイムマシーンでもない限り、あったか、なかったかを証明することはできません。
ただ信じるか、信じないかのどちらかしかありません。
しかし確かなことは、復活を信じた者たちは、確かに人生が喜びへと変わっていった、ということです。
8節をご覧ください。
「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。
震え上がり、気も動転していたからである。
そしてだれにも何も言わなかった。
恐ろしかったからである」。」
あれ、家に帰ってふとんにくるまってガクガクブルブル。
どこが喜びの人生やねん、と思わず関西弁で突っ込みたくなりますが、実はマルコの福音書はここで終わっています。
その後、さすがにこれはいかんと当時のクリスチャンが考えたのか、いくつかの文章が付け加えられていますが、少なくともマルコに関しては、「恐ろしかったからである」で、この福音書を書き終えています。
この女性たちにとって、イエスがよみがえったことは、文字通り、恐ろしいことだったのです。
一度完全に死んだ者がよみがえる。
それは私たちの常識を越えた出来事です。
しかもイエスの死に際して、弟子たちは逃げだし、女性たちは遠くから見つめることしかできなかった。
そのイエスの死を、いまさらなかったことにすることはできません。
まさに「恐ろしかった」としか言わざるを得ない、イエスの復活です。
しかし大切なことは、福音書の言葉は「恐ろしかった」で終わっていても、それ以降の弟子たちや女性たちの行動は、確かにその恐怖を乗り越えて、むしろ本当によみがえられたという喜びをもって、イエスを伝えていったということです。
もし「恐ろしかったから誰にも言わなかった」で本当に終わっていたら、福音はそこで終わっていたことでしょう。
しかし、歴史が証明しています。
復活を目撃した者たちは、恐怖を乗り越えて復活を信じる者となりました。
そして復活を信じた者たちは、死を乗り越えて、永遠のいのちを世界の至るところへと伝えていったのです。
よみがえったキリストを信じるときに、私たちの中には決して取り去られることのない喜びといのちが生まれます。
だから信仰に向かって一歩踏み出すのです。
あるいは一歩踏み出すことを伝えるのです。
復活は決して遠い出来事ではありません。
私たちが一歩を踏み出せば、そこに復活の恵みが満ちあふれています。
この喜びをかみしめながら、イースターの一週間を歩んでいきましょう。