みなさん、おはようございます。6回にわたり語ってきた十字架への道の説教も今日が最後になりました。
いよいよ来週には復活週、イースターとなりますが、その前に私たちは、世界を暗闇と沈黙が襲ったという十字架のできごとについて、今日は一緒に迫っていきたいと願います。
まず33節をお読みします。
「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた」。
イエス様が十字架につけられたのが午前9時、息を引き取られたのが午後3時、と考えると、約6時間の十字架上での苦しみのなかで後半の三時間、皆既日食が起こったということになります。
しかしじつはこの暗闇は、ただの自然現象ではありません。
この三時間の暗闇は、約一週間続く、イスラエルの大事な年中行事である過越の祭の最後の三時間に起こりました。
過越の祭とは、かつてイスラエル人がエジプト人の奴隷として過ごしてきたとき、神がイスラエル人を奴隷から解放してくださったことを記念するお祭りです。
旧約聖書によれば、闇がエジプトを覆う真夜中、エジプトのあらゆる家はさばきが襲ったが、子羊の血を家の門柱と鴨居に塗るように言われていたイスラエル人の家はさばきが過ぎ越した、と書かれています。
つまり二千年前の過越の祭りの最後の三時間、世界を暗闇が覆うなかで、イエスが息が引き取られるというこの出来事は、イエスの十字架が、今度はイスラエル人ではなくてすべての人間を奴隷から解放するための、過越であることを象徴的に表しています。
しかし奴隷と言ってもエジプトの奴隷ではありません。
もっと深刻で、もっと本質的な、罪の奴隷からの解放を、イエス様は私たちに与えるために、十字架にかかってくださったのです。
聖書は言います。
あらゆる人は罪を犯したため、神からの栄誉を受けることができない、と。
あらゆる人は、生まれながらにして、アダムとエバが神に逆らって人の中に入った、罪の原理を引き継いでいます。
まるで天使のような愛らしい笑顔で生まれてくる赤ちゃんが、初めから罪の原理を宿しているということは、およそ私たちには信じられず、受け入れがたいことでありましょう。
罪を持っているというのは、赤ちゃんがあんな顔をしてじつは心の中で邪悪なことを考えているとかいう意味ではありません。
しかし私たちの中には生まれたときから知らずして、この存在の中に罪の原理を宿しているのです。
それは人格とか徳といったこととは関係なく、私たちの中に潜んでいます。
それゆえにあらゆる人間は、神の前に罪人であるのです。
そしてその行き先には、地上の死の先にも続く、永遠の死があると聖書は警告しています。
イエス様は、そのような最後を私たちに与えないために、ご自分が十字架にかかられました。
私たちの罪のさばきを身代わりとして引き受けるために、神からのろわれたものとなりました。
私たちを罪の奴隷から解放するために、神の子羊として、ご自分の血潮を十字架で流されました。
世界を暗闇が覆った最後の三時間、全地が沈黙しました。
空の鳥ははばたきとさえずりをやめ、家畜や野の獣たちも身動きせずいななきをやめた。
すべての生き物たちは十字架についたイエス・キリストのあまりの苦しみに息をのみます。
御子を十字架に渡された父なる神の痛みの大きさに口をつぐみます。
すべての被造物が沈黙し、静寂だけが地上を覆います。
そのような押しつぶされるような三時間が終わる頃、それまで沈黙を守っていたイエスさまは全地に響き渡るような大声で、こう叫ばれました。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。
わが神、わが神。
どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
この言葉は、一見すると、イエス様が父なる神に泣き言を言っているように聞こえます。
しかしこの言葉があるからこそ、本来、私たちが受けるべきであった、神ののろいが、イエス様を信じる者たちからは取り去られていることを確信することができます。
イエス様は、確かに見捨てられました。
聖書にははっきりと書いてあります。
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださった」。
私たちのかわりに見捨てられました。
私たちのかわりにのろわれました。
私たちがかぶるべき、いばらの冠を。
私たちが打ちつけられるべき、手足の釘を。
私たちが吐きかけられるべき、つばきとあざけりを。
そして私たちが叫ぶべき、「神に見捨てられた」という絶望者の叫びを、イエスは代わりに引き受けてくださったのです。
どうか忘れないでください。
あなたの罪、それは過去・現在・未来にわたって永遠の昔から永遠の終わりに至るまで、キリストの十字架によって完全に打ち消されたのだということを。
恵みは何があっても決してあなたを離れることはありません。
あなたが変わっても、神は変わりません。
あらゆる人の力、情熱、環境、それは変わっても、神の愛は決してあなたから離れることはありません。
あなたが叫ぶべき罪の痛みは、すべてイエスが十字架で叫んでくださいました。
そしてご自分が罪から人々を取り返したことを確信するかのように、イエスは十字架で息を引き取られました。
その堂々とした死に様は、本来イエスを嘲っていたローマの百人隊長でさえ、「この方は本当に神の子であった」と告白するほどでした。
イエスの正面に立っていた百人隊長だけではなく、このイエス様の死に様を弟子である女性たちが遠くから見つめていました。
40節にはその名前がこう記されています。
マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメがいた、と。
その中のひとり、サロメに注目してみたいと思います。
彼女は、ほかの福音書ではゼベダイの子らの母と呼ばれています。
ゼベダイの子らとは、イエスの十二弟子のひとり、ヤコブとヨハネの兄弟を指しています。
かつてこのサロメは、ヤコブとヨハネを連れてイエスにこう直訴したことがありました。
「イエス様、あなたが御国の王座に着かれるときには、私の二人の息子をひとりは右に、ひとりは左につけてあげてください」。
それは母としては愛のしるし、しかし弟子としては盲目のしるしでした。
イエスは言われました。
「あなたがたは、私がこれからしようとしていることがまったくわかっていないのだ。
私が受けようとしている苦しみの杯をあなたがたは飲むことができるのか」。
今、十字架を前にしてサロメは何を思ったでしょうか。
イエスは御国の王座どころか、犯罪人として十字架につけられました。
その右と左の十字架には、息子たちではなく名も知れぬ強盗たちがつけられました。
しかしそこで彼女はイエスに失望しませんでした。
むしろ彼女は、ここで本当に目が開かれたのです。
これがイエスの言われた苦しみの杯なのだ、と。
イエスの十字架は、信じる者たちを変えていきます。
ゼベダイの妻、サロメは、もっとも地上の栄光とは遠いように見える、イエスの十字架を通して、逆に自分自身の信仰を作り変えられていきました。
私たちも、クリスチャンとしてすでに何十年も歩んでいるかもしれません。
しかし十字架はいつでも私たちの心と生き方を作り変えることのできる、神の力です。
その真理を、もう一人の人も証ししています。
それは、アリマタヤのヨセフです。
彼はキリストの弟子ではありましたが、ユダヤ人を恐れて、弟子であることを隠していた人でした。
しかし42節では、その彼が、「勇気を出して」ピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た、とあります。
彼を変えたのは何だったのでしょうか。
これもまた、イエス様の十字架がもたらした、神の力でした。
すでに夕方になり、あらゆる仕事をしてはならない安息日が始まろうとしていました。
ヨセフは考えたでしょう。
もし自分が動かなければ、イエスの遺体は丸二日、十字架の上にさらされたままになる、と。
今までの彼は、そのようなことは他の弟子に任せていた者でした。
しかし今は違います。
彼は急いで亜麻布を買い、自分の墓としてとってあった、新しい墓にイエスを納め、入り口に石のふたをしました。
ヨセフは夢中でした。
彼は自分がユダヤ人を恐れ、真実を隠している中途半端な弟子であることを思いながら、それでもイエスのために夕方の薄闇の中を走り回りました。
そしてそこで、キリストのためにあからさまに走り回ることが、自分の立場を守るためにこそこそ逃げ回る生き方よりはるかに楽しいことに気がついたのです。
「死」は、人びとが最も触れたくないものと言えるかもしれません。
しかし神は、イエスの死を通して、かえって人びとの心に触れられました。
それが二千年前に起こった出来事であり、そして今日も起こりうることなのです。
イエスの死、すなわち十字架が語られるとき、すでにそれを信じているはずの私たちクリスチャンの中にも霊的な新生が起こります。
古いものが新しくされ続けていきます。
ましてや、私たちが勇気を出して十字架を語るならば、それを聞いた人の中に、最初はさざ波のように、しかしやがては救いに至る悔い改めが起こるのです。
いよいよ、来週はイエス・キリストの復活を祝うイースターです。
これからの一週間、私たちの証しの日々が導かれていきますように。