みなさん、おはようございます。今日の聖書箇所は、福音書の中でも、最も人の罪の醜さが表れている場面と言えるでしょう。
しかし最も美しい神の愛は、最も醜い人の罪の中にこそ現れます。
目を背けずに、みことばをひもといていきましょう。
まず16節をお読みします。
「兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた」。
「全部隊」、すなわち、エルサレムに駐屯するローマ兵すべてが官邸に集められたのです。
イエスを安全に死刑場にまで連れていくためにでしょうか。
興奮する群衆からイエスを守るためにこれだけの兵士が必要だったのでしょうか。
答えは逆です。
彼らはイエスを守るためにではなく、イエスをあざ笑うために集まってきたのです。
ユダヤの王をあざけり、唾をはきかけ、せせら笑う、ただそれだけのために。
官邸に集まった兵士たちは紫の衣を着せ、いばらの冠をかぶらせました。
そして彼らの「礼拝」が始まったのです。
もちろんその礼拝は、ひとかけらの真実も持ち合わせていない、偽りに歪んだ礼拝です。
兵士たちは黄色い歯をむき出し、下品な冗談をたたき合いながら、主の前にひざまずきます。
神への尊敬に代えて彼らは葦の棒で主の頭をたたきます。
神への賛美に代えて、次々とその顔に、衣に、唾を吐きかけます。
ハレルヤの叫び声に代えて、彼らはこう叫びました。
「ユダヤ人の王さま。ばんざい」。
この言葉は、英語の聖書では、「王よ、どうか長く生きられますように」という文になっています。
目の前のイエスがこれから死刑にされることを知ってのうえで、彼らはいけしゃあしゃあと「いつまでも生きられますように」と叫ぶのです。
いったい主イエスは、どのような思いでそこに座っておられたのでしょうか。
怒りでしょうか。恥辱でしょうか。悲しみでしょうか。
この出来事より数時間前、ゲツセマネの園で、槍や棒を手にした群衆に囲まれたとき、イエスは弟子たちに言われました。
「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか」。
そうだ、イエスをあざ笑い、打ちたたいているすべての兵士たちが一瞬にして溶け去るような、御使いの十二軍団を遣わしてくださることもできたはず。
もし御使いたちがこの総督官邸でのイエスの姿を天から見つめていたとしたら、彼らは言うでしょう。
こんなおぞましい礼拝をなぜ我らの主は我慢しておられるのか。
こんな愚かな人間どものために何を主は耐えておられるのか。
しかし主は沈黙し続けました。
兵士たちの嘲りを、顔にかけられるつばを、打ちたたかれるほおをそのままに、ひたすら耐えられました。
それは、イエスが向かおうとしておられる十字架、イエスが背負おうとしておられる十字架、ただそれだけが、人を罪から救うことができるからです。
兵士たちはそのような、イエスの十字架に対する覚悟など知るよしもありません。
この後、彼らはイエスの十字架を、田舎から出てきたシモンという男に代わりに背負わせます。
兵士たちにとって、十字架はただの処刑の道具であって、だれが背負おうがかまわないものでした。
しかしイエスにとっては違いました。
まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストが、全人類の罪の身代わりとなって十字架にかけられる。
これより他に救いはありません。
神のひとり子が十字架にかけられること以外に、父なる神の怒りをなだめることはできません。
この苦しみの杯を飲み干す以外に、人々の罪を贖うことはできません。
ただ十字架だけが、罪にとらわれた人々を解放することができるのです。
「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」
イエスはその狂った群衆の叫びの中、ゴルゴタの丘にまで連れてこられました。
イエスは、すべての服をはぎとられて、地面に置かれた十字架の上に横にさせられました。
何人ものローマ兵の腕が伸び、イエスの御手を、その御足をそれぞれ横木と縦木に押さえつけます。
兵のひとりが手首を乱暴に押さえつけ、主の五本の指を無理矢理に広げます。
そして他の兵士が左手に釘をつかみ、主の手のひらの真ん中に押し当てつつ、右手の金槌を何度も振り下ろします。
肉の裂ける音、血の飛び散る音。
イエスは釘が打ちつけられる瞬間、どのような声をあげられたのでしょうか。
それとも歯を食いしばって声を殺されたのでしょうか。
あまりの痛みに目を閉じられたのでしょうか。
それとも苦しみの杯を飲み干すために目を見開かれたのでしょうか。
その痛みがどれほどのものであったのか、私たちには想像するしかありません。
しかし確かなことは、この肉体が割かれる痛みがどれほどのものであったとしても、イエスにとって、もっと大きな十字架の苦しみは、「木にかけられた者はのろわれた者である」という旧約聖書のみことばのとおり、イエスが父なる神からのろわれた者とされることであったということです。
それは、はじめから神との関係が破綻した罪人として生まれてくる私たち人間には決して理解できない苦しみです。
その意味では、私たちもまた、ここに出てくる、さまざまな人々と同じです。
兵士たちが、祭司長たちが、律法学者が、道行く者たちが、共に十字架につけられた犯罪人たちが、イエスの十字架は他人事でした。
私たちも、十字架を他人事としか受け止められませんでした。
二千年前のエルサレムに私は生きていない。なぜ二千年前の出来事が自分に関係があるのか。
十字架などというものが今の自分の生活と何の関係があるのか、と。
しかし、十字架はあなたのためでした。
十字架で死なれたイエスを、自分とは関係のない昔の人としか受けとめられない、あなたのためにイエスは十字架で死んでくださいました。
イエスを十字架につけた後、着物をくじでわけた兵士たち。
十字架の一番そばにいながら十字架が見えていない人々の中に、あなたもいました。
「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」。
むしろ自分こそ救いが必要だということを知らずにあざける人々の中に、あなたもいました。
「今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」。
目に見えるものしか信じようとしない愚かさを自ら言い表す人々の中に、あなたもいました。
イエスの十字架の右と左で彼をあざけった犯罪人たち。
自分が罪人であることがわからない彼ら自身こそ、かつての私たちの姿でした。
しかし今は違います。神は私たちの目を開き、十字架の真実を教えてくださったからです。
それは私の罪のためだったのだ、と。
自分ではどうやっても解決することのできない罪へのさばきを永遠に消し去るために、イエス様は私の身代わりとなって十字架にかかってくださったのだ、ということを私たちは知っています。
だからこそ、私たちも自分の十字架を背負いながら、イエスの後についていくのです。
この世界は、今も救いを必要としています。
そして神は私たちを救いのメッセンジャーとして用いていくために、この時代において、まず私たちを救ってくださいました。
十字架は、決して万人受けするような話ではありません。
多くの人々には馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれません。
しかしもし私たちが、自分自身が十字架によって救われたことをまっすぐに語るならば、そのときに神は誰かの心を開いてくださって、救いを広げてくださいます。
ですから、語り続けていきましょう。
これからの一週間、ひとり一人の上に、主の導きが与えられますように。