みなさん、おはようございます。四旬節も後半に入りました。
今日の礼拝メッセージは、ローマ総督ポンテオ・ピラトの姿から、信仰について学んでいきたいと思います。
これはいささか誤解を生みやすい表現かもしれません。
少なくとも今日の箇所から、ピラトの中に信仰を見いだすことはできないからです。
彼は頭のよい人でした。
ユダヤ人たちが、ローマの権威を利用してイエスを十字架につけようとしていることを知っていました。
そして、ある程度はひとりの政治家、法律家として、イエスを守ろうとした姿も見受けられます。
しかし彼は最後まで、イエスを救い主として見ることができませんでした。
「ユダヤ人の王」と皮肉交じりに語ってはいますが、本当の王だとはもちろん思っていません。
彼がどんなに頭が良く、社会的に高い地位にあったとしても、信仰に届かなければ、それは意味がありません。
それを私たちは改めて心に刻みつけなければならないのです。
私たちが毎週の礼拝で告白している使徒信条、その中に、人間の名前が二人記録されています。
ひとりはキリストの母となった処女マリヤ、そしてもう一人がこのポンテオ・ピラトです。
私たちはどちらの生き方を選ぶのでしょうか。
貧しいながらもキリストの母として信仰によって生きたマリヤでしょうか。
それとも己の立場やプライドを守るために、キリストが正しいことを知っていながらユダヤ人に引き渡したピラトでしょうか。
どうかピラトではなく、マリヤの道を選びたいと思います。
かつてマリヤは御使いの前でこう告白しました。
「私は小さなしもべです。どうか神のおこころどおりになりますように」。
それに対して、ピラトは、ローマ総督という立場とプライドを失うまいとし、イエスにここまで近づいていながら、最後まで目の前のイエスを神として見ることができなかったのです。
日本ではクリスチャンの数はたいへん少ない、1%未満ですが、しかし人生においてまったく福音に触れたことがないという人はいないでしょう。
お年を召した方であったり、教会のない地域に住んでいたりということはあっても、それでも何らかの機会に、福音に触れたことがあるのです。
しかしそれはある意味、一生に一回か二回か、ということもざらではありません。
そしてせっかく福音に触れても、この世の価値観や生き方に心が支配され、目がふさがれてしまっているならば、救われる機会を逃してしまいます。
もちろん救いは神さまのご計画ではありますが、そこで人間の態度や責任がまったく問われないということではないのです。
ピラトの姿から私たちはそれを現代の日本人の姿にも当てはめることができます。
イエスは罪がない者であることがわかっている。
キリスト教の福音も正しいことを教えているように思われる。
しかし、しがらみの中で、正しいものを選び取ろうとする勇気がない。
人生や生活に閉塞感を感じながらも、家族の手前、近所の手前、周りに合わせ、福音を聞いてもそれはまた今度という人々であふれています。
パウロがアテネで説教した時、人々は言いました。
「このことについては、またいつか聞くことにしよう」。
しかし「いつか」はなかったのです。
また同じパウロが総督ペリクスに福音を語った時も、聖書はこう記録しています。
「パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言った。
しかしペリクスはパウロを呼び出さないまま、二年後には総督を解任され、福音を選び取る機会を失いました。
ピラトが、イエス・キリストを無実だと感じたことは間違いがありません。
「あなたは、ユダヤ人の王なのか」「あなたがそう言っています」。
その短い会話のあと、どれだけ自分に不利な証言をされても何も答えようとしないイエス。
総督の立場を得るために、言葉や策略を尽くして自分に有利な状況を作り上げてきたピラトにとって、ここでまったく反論も自己弁護もしないというイエスの姿は、驚きしかありませんでした。
ピラトの心に起こった感情や、言葉を拾い出してみましょう。
5節、「それにはピラトも驚いた」。
10節、「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである」。
14節、「ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか」。
ピラトは確かに気づいていました。
最初の驚きは、最後にはこのイエスという男に罪はない、という確信に変わっていったのです。
しかし彼の心ははっきりとそう気づいていたのに、彼は結局その道をまっすぐ進もうとしませんでした。
15節、「それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスをむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した」。
ピラトがイエスを十字架につけるために引き渡したことは、聖書の四つの福音書すべてに記録されています。
しかしその時の彼の心の中身にまで触れているのは、このマルコ福音書だけです。
そしてそれは「群衆を満足させようと思い」と書かれています。
この「思い」と訳されているギリシャ語は、新約聖書の中で約40回使われている言葉ですが、そのほとんどが「願い求める」あるいは「決める」と訳されている言葉です。
単に思い浮かんだのではありません。
自分の選択がどのような結果を生むのかを知っている、という意味です。
ピラトにとって、それはたいしたことには思えなかったでしょう。
しかし彼の選択は、彼から永遠のいのちを受けるチャンスをまさに永遠に奪ってしまったのです。
私たちクリスチャンは、世の人々に懇願します。
ポンテオ・ピラト、そして彼と同じようにこの二千年間、永遠のいのちに至る決断を保留したまま世を去った数え切れない人々のように、あなたはならないでください、と。
なぜポンテオ・ピラトの名が使徒信条に加えられているのか。
それは、後の時代の人々への警告です。
ピラトのようになってはならぬ、と。
福音にあと一ミリまで近づきながら、福音から永遠に遠ざかってしまった彼のようになってはならぬ、と。
まだ信じていない人々に信仰を強制することはできません。
しかしイエスを正しい人と認めながら、結局彼を拒み、永遠のいのちを失ってしまったピラトみたいに、私たちの家族や友人にはなってほしくありません。
だからこそ、祈りつつ、祈り続けつつ、私たちは福音を伝えます。
どうか、私と関わりのある人々が福音のすばらしさに目を開かれ、その喜びにあずかることができるように、と。
今週、私たちが出会う人々に、どのような形であっても、私たちが信じている福音を証ししていくことができるように、祈りましょう。
イエス・キリストは、私たちにいのちの喜びを与えるために、十字架へと向かってくださったことを、私たち自身の中にある喜びを通して、証ししていきたいと願います。
一人ひとりのこれからの一週間が、神さまによって豊かに用いられますように。