みなさん、おはようございます。四旬節第三週になりましたが、今日の説教箇所は、ペテロがイエスのことを三度知らないと言った、これもまた有名な箇所からです。
しかしその前に、ゲツセマネの園でイエスと弟子たちが群衆に取り囲まれたとき、ひとりの弟子が剣をもって大祭司のしもべの耳を切り落とした場面から見ていきたいと思います。
ここで剣を抜いて大祭司のしもべに斬りかかり、その耳を切り落としたという、「そばに立っていた一人」とは、じつはペテロであったことがわかっています。
しかしここであえて名前が伏せられている理由、それは、自分よりも弱い者を攻撃することで溜飲を下げるという弱さが、この聖書を読んでいるひとり一人の中にあるのだということを気づかせるためです。
大祭司のしもべは、剣も持っていない、いかにも弱そうな男だったのでしょう。
言うなれば、ペテロにとっては、怒りをぶつけるのにふさわしい、反撃されそうもない相手でした。
感情で動いているようで、じつは打算を含んでいる、こういうみにくい人間の姿は、私たちの中にも隠れているものです。
霊的な問題が起こったとき、それを祈りとみことばによって戦うよりも、もっと楽で時間のかからない方法を選びます。
聖書で「剣」とはこの世的な解決手段を指します。実際に私たちは剣を手に取ることはなくても、世間の常識、自分の経験、自分の努力、私たちが祈りと聖書だけに信頼しようとすることを妨げるあらゆるものが、剣となり、手近な解決手段となります。
しかしそれは本質的な解決は生み出しません。
なぜなら問題の本質は、自分自身のかたくなな心であり、それが砕かれない限り、解決にはならないからです。
そしてこの世で最もかたくなな私の心は、この世の剣で砕くことはできません。
ただ祈りとみことばだけが砕くことができるのです。
イエス様は、剣を振り回して活路を開くやり方を認めませんでした。
ペテロが切り落とした、しもべの耳を元通りにいやし、ただこう宣言しました。
「こうなったのは、聖書が成就するためです」と。
この言葉は、「聖書を成就させよ」という命令形に訳することもできます。
剣を構え、無難な敵を選んで斬りかかるようなマネは、神の子どもたちにはふさわしくない。
「みことばを実現させよ!」
たとえわたしが捕らえられたとしても、それはみことばが実現されるためである、とイエスは凜として語られました。
私たちも、あらゆる問題に対して、この世の剣を用いるのではなく、みことばによって戦うのです。
しかし剣を振るった張本人であるペテロは、まだ自分の高慢に気づきません。
彼は一度その場から逃げ出した後、イエスを追いかけ、大祭司の庭に潜り込みます。
しかもたき火にあたりながら、イエスが尋問されている様子を眺めていました。
するとある人が話しかけてきました。
「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね」。
隙をついてイエスを助け出すためのペテロの計画は、そこからガラガラと崩れていきます。
そのきっかけを作った人物は、ローマ兵でもなく、ゲツセマネにいた群衆のひとりでもなく、彼と面識もない、「大祭司の召使いの女のひとり」でした。
神は、ご自分の計画を果たすために、小さな者を用いられます。
ペテロもまた、そのような小さな者のひとりでした。
ガリラヤ湖の、無学な漁師にすぎなかった彼が、イエスに弟子として選ばれたのです。
それは、神が小さな者を用いられるという真理を、ペテロ自身に経験させ、彼を神の器として整えるためでした。
しかしペテロはいつのまにか、自分を小さな者ではなく、大きな者と考えるようになっていました。
たとえすべての弟子がイエスを見捨てたとしても、自分だけはイエスを助け出すと豪語するような人間になっていました。
神が用いるのはそんな高慢な者ではなく、へりくだった者です。
私には何かできると、神に自分を売り込む者ではなく、私には何もできない、しかし主がお入り用であれば、と自分を差し出す者。
そういう者を主は用いられます。
その真理をいつのまにかペテロはどこかへ置き忘れてしまっていました。
神はその忘れ物を取り戻させるために、大祭司の女中のひとりという小さな者を、ペテロに対するさばきの器として用いられたのです。
想定外の出来事に、ペテロは混乱します。
「何を言っているのか分からない。理解できない」。
ペテロはそう答えるのがやっとでした。
しかし召使いの女は、そこで終わらずに騒ぎ出し、周りの人々はペテロのガリラヤなまりに気づきました。
「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから」。
もはや恥も外聞もない。
のろいの言葉さえ口に出して、イエスを知らないとペテロは言い張ります。
その時、二度目の鶏の鳴き声が闇を切り裂きました。
ここでペテロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」という言葉を思い出しました。
逆に言えば、それまでは忘れていたのです。
みことばを忘れていたゆえに、ペテロは大祭司の庭に、自分を過信して飛び込んでいきました。
みことばを忘れていたゆえに、神が小さな者をも用いられることを忘れ、召使いの女の告発の前に我を失いました。
そしてみことばを忘れていたゆえに、のろいの言葉を持ち出してまで、イエスなんて知らないと繰り返したのです。
しかし神のあわれみは何と深いのでしょうか。
これらのことを通して、神はペテロにみことばを思い出させてくださいました。
どん底に落ちたとき、私たちはそこで一筋の光のみことばを聞くのです。
それが聞こえたならば、悔い改めて心を開くこと。
それが私たちに向けられた、神さまからのメッセージです。
ペテロは外に出て、泣き崩れました。
知らない、知らない、知らない、と三度繰り返した、ふがいない自分に対する涙。
しかしこの時、ペテロのかたくなで高慢な心が、涙でぐしょぐしょにふやけて、流れていきます。
彼はようやく気づきました。
自分は神のために死ねるような強い人間ではない、と。
言葉だけは勇ましいが、実際は約束を裏切り、いざという時には保身に走る。
しかしその涙は、彼を絶望から希望に生かす悔い改めの涙となりました。
悔い改め、という言葉はある人々にとっては、非常に後ろ向き、消極的な響きに聞こえるでしょう。
もし罪を後悔するだけなら、確かに後ろ向きでしょう。
しかし私たちは後悔するのではなく、悔い改めるのです。
同じことを繰り返さないという決意をもって、やり直すことができます。
昨日までの私がどんな失敗を繰り返したとしても、神はそれを忘れてくださり、新しい人間に変え続けてくださいます。
人生はまだ間に合う、という希望があるからこそ、悔い改めることができるのです。
言い換えれば、悔い改めは、あなたが生きている証しです。
希望もなく、死にゆく者は、後悔することはできても悔い改めることはできません。
自分で自分の人生を総括し、手遅れとみなして自ら死を選んでいくのです。
それが、自分の罪を認めながらも、自ら首をくくって死んでいったあのユダと、ここから変えられていったペテロとの違いです。
悔い改めることを恐れずに生きましょう。
悔い改めの涙をこぼすことを忘れずに生きましょう。
まだ人生は間に合う。
明日は改めることができる。
それが悔い改めという希望です。
ひとり一人が自分の罪や弱さに正面から向き合いながら、悔い改めを与えてくださった神様に感謝して生きることができるように。