みなさん、おはようございます。四旬節第二週の礼拝説教は、有名なゲツセマネの祈りから一緒に学んでいきたいと思います。私たちクリスチャンは、問題のただ中にあるとき、よく「祈ってください」と他のクリスチャンに頼みます。あるいは、頼まれなくても、自分の方から「祈っていますね」と声をかけます。信仰を持たない、世の人もお互いに「祈ってね」「祈っています」と言うことはありますが、それはあくまでも人間同士のコミュニケーションです。しかし私たちクリスチャンにとって、「祈り」がこの世の現実を変える神の力である、と本気で信じているからゆえ、「祈っています」と心からやりとりすることができるのでしょう。神は、私たちの祈りを取るにたりないものとは決して言われません。どんな小さな者の祈りも、神の国の石垣のひとつに組み込まれています。そしてイエス・キリストがゲツセマネの園で弟子たちに命じられた言葉からも、その真理を学ぶことができるのです。 ここは十字架にかかられる数時間前、エルサレム郊外にあるゲツセマネの園です。イエス様は、8人の弟子たちにはここにいて祈っているようにと命じ、三人の弟子、すなわちペテロ、ヨハネ、ヤコブだけを園の奥へと連れて行かれました。しかしその口から出てきた言葉は、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と、今までのイエス様にはまるでふさわしくない言葉でした。三人の弟子たちは、やがて眠りこけ、そのたびにたたき起こされることを何度も繰り返すのですが、それでも彼らの目にも、イエス様の様子がいつもと違うことがわかったことでしょう。あの凜とした神の子イエスが、震えながら、何度も何度も「この杯を取りのけてください」とひれ伏して懇願します。イエスは弟子たちにさえ懇願します。目を覚ましていなさい。私と一緒に、目を覚まして祈っていなさい、と。 イエス様はまことの神であり、まことの人であったと言われます。それは、本来神とは無関係な、人の罪を、ご自身が身代わりに背負うために、まことの神だけであるだけでなく、まことの人ともなられたということです。だからこそ、イエスは弟子たちの前に、人としての弱さをさらけ出します。「私は悲しみのあまり死にそうです」と。全人類の罪のために、今自分が身代わりとなる時がやってきた。この地上の誰も、その苦悩を理解できるものはいない。全人類の身代わりとして父なる神から引き離されてしまうという悲しみ。十字架の上で愛する父からのろわれた者となる悲しみ。弟子たちは、その苦しみの深さはまったくわからない。しかしキリストは、それでも弟子たちに懇願するのです。どうか目を覚ましていてくれ。一緒に祈っていてくれ。イエスはゲツセマネの土の上にひれ伏して、祈ります。その祈りの言葉は、人としての弱ささえにじみ出たものでした。もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように、と祈ります。「父よ。どうかこの杯をわたしから取りのけてください」とも祈ります。 ゲツセマネでの出来事は、祈りの記録です。それは、イエスの祈りの戦いだけでなく、本来、11人の弟子たちも、一緒に目を覚まして祈りの戦いに加わるべきであったことを教えています。私たちの祈りは、小さな祈りです。しかしそんな私たちの祈りを、今も主は必要としておられます。祈りはかなえられるからこそ意味があるのではない。祈りは主が必要としておられるからこそ意味がある。そして祈りは勝利をもたらします。イエスは祈りの前と祈りの後、確かに変えられていました。もう杯を飲み干すことを恐れません。たてがみを振るわせて叫ぶ獅子のようにイエスは立ち上がりました。私たちも、祈りましょう。世界のために、救いのために。主は私たちの祈りを求めておられます。 42節をお読みします。「立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています」。その言葉が終わる前に、園の影から剣や棒を手にした群衆が現れました。先頭には一人の男が笑みを浮かべています。聖書はかの人物についてこう記録します。「十二人の一人のユダ」と。ああ、これが十二弟子だった男のなれの果てなのです。45節にはこうも書いてあります。「ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした」。 あろうことか、彼は口づけを、イエスを捕らえるための目印にしました。口づけは愛し合う恋人や家族が、あるいは師を尊敬する弟子が用いるあいさつです。しかし今ここに愛も敬意もありません。ユダはイエスを破滅へと追いやろうとする毒を笑顔の下に隠しながら、イエスに口づけしました。しかし、なんとイエスはマムシの毒のような口づけをすべて受けとめられました。微動だにせず、その口づけを拒まず、ただ受け止められたのです。 イエスは、ゲツセマネの園での祈りの格闘を通して、父なる神が与えられた苦しみの杯を飲み干す決意をされました。その苦しみの杯は、まむしの毒で満ちていました。弟子の一人から、愛のしるしである口づけを合図に裏切られ、敵の手に渡されるという耐え難い毒の杯です。しかしこの苦しみの杯を、主は愛をもって飲み干されました。この瞬間をその場で目撃し、そしてやがてその場から逃げ出すことになる弟子ヨハネは、福音書にこう書き残しています。「神はじつにそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」。この「世」の中には、この「ユダ」さえも含まれていたのです。ましてや、私はその中に含まれていない、などと言える人がいったいいるでしょうか。いません。どんな人も、このキリストの愛の中に包まれているのです。 しかし最後にもうひとつ、私たちは見ておかなければいけないところがあります。それは44節、「イエスを裏切ろうとしていた者」の中に、やはりすべての人が含まれているということです。不思議なことに、聖書はその前後では「ユダ」と名前ではっきりと書いているのに、ここだけ「イエスを裏切ろうとしていた者」という表現を使っています。それは、私たちの中にもユダのように、イエスに従い切れない部分を残していることを含んでいるのではないでしょうか。もちろん、私たちは悪魔の子ではありません。神の子どもとして定められ、事実いま神の子どもとして生きている者です。しかしペテロでさえ、この後イエスを知らないと連呼し、結果としてイエスを裏切ることを私たちは知っています。私たちはどんなに自分を強いと思っている人でも、じつは弱いのです。 だからこそ、説教の最後に、あえてこう呼びかけたいと思います。神はひとり子イエスを十字架につけるほどに、あなたを愛されています。その愛にいつまでも答えを出そうとしないこと、それは神の愛を裏切り続けているのに等しいということを。愛というものは、見返りを求めません。しかし答えを求めます。もしあなたが神からの愛を知ったならば、私も神を愛すると答えを出さなければなりません。 今日、もし主の愛がわかったならば、答えを出しましょう。神が私を愛してくださっているように、私もあなたを愛します、と。神の無限の愛は、ユダにさえ向けられていました。その愛に答えて生きることが、私たちにとっていのちの源です。クリスチャンの方も、まだ信仰を持っておられない方も、イエス・キリストが私を愛しておられるということを受け入れ、その愛に答えることができますように。