みなさん、おはようございます。 先週の主日は、その直前から降り積もった雪のために、教会学校と礼拝をそれぞれの自宅にて守っていただくという形になりました。インターネットができる方は自宅で事前録画を視聴しながら礼拝をささげることができたかもしれませんが、残りの方はそれぞれのかたちで礼拝を守られたことでしょう。ちょうど先週の礼拝説教から、ギデオンを三回シリーズで取り上げますと宣言して、その最初の説教を聞くことができなかった方もいるかもしれません。でも今日の箇所は、先週聞いていなくても大丈夫です。代わりに今日の説教を、倍集中して聞いていただけたらと思います。 今日の物語は、今から三千年以上前のイスラエルが舞台です。当時、イスラエル人は、ミディアン人という外国人にいじめられ、苦しめられていました。それに対して神はギデオンをリーダーとして選び、ミディアンと戦うように命じられました。そして三万二千人の兵たちがギデオンのもとにはせ参じてきた、と1節では書かれています。三万人もの戦士たちが自分のもとに集まってきた姿を見て、ギデオンは目を細めたでしょうか。これだけいれば、ミディアン人と十分戦えるはずだ、と。いいえ、きっとそうはならなかったでしょう。なぜなら、ミディアンの兵士たちの数は、別のところには13万5千人と書かれているからです。敵13万に対してこちらの人数は、3万人。四分の一以下でしかありません。戦の常識で言えば、とうてい勝利を勝ち取ることのできる人数ではありません。3万人の兵たちを前にしたギデオンは、誇らしく思ったというよりは、内心がっかりしたのではないでしょうか。イスラエルの人たちは、本気で戦うつもりがあるのか。海の砂よりも多いと言われたミディアンとの戦いのために角笛を吹き鳴らして兵を募れば、たったの3万人。 私が小学生の頃ですが、インフルエンザが大流行したことがありました。田舎の学校でしたので、学年に一クラスしかない約40人学級でしたが、そのうちの半分くらいの人が感染を恐れて学校を休みました。すると朝のホームルームで、担任の先生がこう言ったのです。「インフルエンザくらいで休むなんて、おまえらたるんでる」。いかにも昭和の話ですが、そこで子供心に思ったのは、それは自分らではなく休んでいる人たちに言ってくれ、というものでした。 ギデオンが集まった3万人に対して、おまえらたるんでると思ったかどうかはわかりませんが、ただ不安に駆られたことは確かでしょう。もしかしたら、やはり自分の人望が足りなくてこれしか集まらないのかとも思ったかもしれません。しかし神さまは、ギデオンに対して、ビックリするようなことを言われたのです。「あなたと一緒にいる兵は多すぎる」と。3万人でも少なすぎるのに、主よ、なぜゆえ。しかしおことばですから、神のことばをそのまま伝えました。「だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよ」。そしたら二万二千人が帰ってしまいました。みんなギデオンと同じことを考えていたのです。3万人では少なすぎる、と。このまま戦いに出たところで勝てるわけがない。犬死にじゃないか。残ったのは一万人です。13万5千人対1万人。ひとりで14人くらいやっつけて、ようやくどっこいどっこい。 ところがさらに神さまは言われました。「兵はまだ多すぎる」。1万人が300人に減らされてしまいました。しかも、恐れているとか、やる気がないとかで帰すのならまだしも、水の飲み方の違いだけで、せっかく残ってくれた9700人を帰してしまいました。ギデオンの心の中は「ごめんなさい」の平謝りです。 少し想像を働かせすぎたかもしれません。しかしなぜ神さまがこのようなことをされたのかははっきりしています。それは3節、「イスラエルが自分の手で自分を救った」と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ」。この世のリーダーは、みんなで力を合わせて目標を達成しようと仲間を発奮させます。それはすばらしいことのように思えます。しかしみんなでがんばったから目標が達成できた、という成功体験は、むしろ人間賛美、集団賛美につながり、神への感謝と恵みを忘れさせてしまう危険があるのです。 力を合わせることは悪いことではないでしょう。実際、私たちの教会生活は、みんなで力を合わせることの積み重ねです。しかし、その繰り返しの中で、私たちは力を合わせるという行為の上に、常識というラベルを貼ってしまいます。具体的には、この人数ならば、このリーダーならば、この予算ならば、この計画ならば、となっていきます。もちろん、協力者の数、リーダーの能力、経済的な蓄え、重要でしょう。しかし私たちが持っているものなど、神の息の一吹きで、ぜんぶ消し飛んでしまうのです。ですが、もしあらゆるものが吹き飛んでも、決して消えないもの、それが信仰です。私たちは何も持っていない、しかし神はすべてを持っておられる。この神が私たちの味方であるならば、何もなくても決して恐れることはない、という信仰です。会堂建設を経験したことのある先輩牧師に、進捗状況を聞かれて答えたとき、これからは引き算ですよと言われました。何を優先し、何を外していくか。本当に必要なものは何か、それを教会員ひとり一人が考えながら、なくしてはならないもの、削ってはならないものが残ります。本当に必要なものならば神が必ず満たしてくださり、そうでないものは神は、容赦なく切り落としていく。その先に、神が定めておられた教会が現れる、と。 何か物騒なアドバイスだと思いましたが、しかし最後に残った一万人の勇士のうち、97%がそぎ落とされたことを振り返るとき、確かに神さまのなさることは、人の目には厳しく見える、だがそれゆえに、自分たちが頑張ったから勝てた、達成したという人の誇りを打ち砕くものなのだとわかります。 「手で水をすすった」三百人は神に選ばれました。それに対して、膝をついて水を飲んだ者たち9700人は家に帰らされました。マナーが悪かったのでしょうか。あるいは緊張感が足りなかったのでしょうか。いいえ、三百人の選びははじめから神のご計画でした。膝をついて飲んだから神のお眼鏡にかなわなかったということではなく、これはただ区別をわかりやすくするための目印にすぎなかったのでしょう。わずか三百人で、13万のミディアンに勝利する。それは人の努力や戦略がいささかも誇ることのできない、神のみわざでした。私たちクリスチャンも、何も誇るものがありません。もし誇るものがあるとすれば、イエス様が私のために死んでくださったという十字架のみです。しかしそれもまた、私たちだけに与えられたものではなく、これから私たちを通して、多くの人々に語られ、開かれていくものです。自宅で礼拝をささげた先週の経験を通して、私たちは今一度、こうして礼拝をささげることが、この世の人々に対する証しそのものなのだ、と確信できました。恵みによって選ばれた三百人の勇士たち、それは、先に恵みによって救われた私たち自身です。誇るのではなく、へりくだりつつ、このイエス・キリストの恵みをあらゆる人々に伝えていきましょう。