みなさん、おはようございます。今週から月末まで、三週にわたって、士師ギデオンについて、礼拝説教で一緒に学んでいきたいと思います。今日はその第一回目として、「神のだだっ子ギデオン」というタイトルをつけました。「だだっ子」というのはだだをこねる子どもという意味ですが、ある方、私よりずっと若い方に聞きましたら、いまはだだをこねるとか使いませんよと言われました。「どうして」と聞いたら、否定的な言葉だからだ、と。子どもに対して、否定的な言葉を使っちゃだめです。だだっ子とか言ったらいけません、ということでした。教会員には現役の保育士の方もおられますので、後で聞いてみますが、昭和の頃にはそこらへん、だだっ子ばかりでした。親に買ってもらえないものがあったり、気に食わないことがあると、スーパーだろうがおもちゃ屋だろうがどこででも座り込んで、泣き叫びます。そんな子どもに対しては一発はたいて言うこと聞かせる、今では絶対いけませんが、そうやって言うこと聞かせられました。昭和よりもはるか昔、三千年以上前、神さまはギデオンの前に現れて、こう呼びかけました。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる」。このとき、イスラエルはミディアンという放牧民からの迫害を受けて、隠れて暮らしていました。神さまはイスラエルをミディアンから救い出すために、このギデオンという若者を選んだのです。ところがそのギデオンが、神さまの選びに答えようとしません。神がともにいるっていうんなら、なんでこんな目に会うんですか、と口答えするわ、わたしがあなたを遣わすのだと言われたら、自分じゃ無理、と尻込みします。私は、クリスチャンになる前ですが、初めてこの聖書の箇所を読んだとき、神の国というのは、よっぽど人材不足なんだなと思いました。石ころからでもアブラハムの子を造ることができるという神さまが、なぜギデオンひとりにここまで譲歩するのかなあ、と。 しかしいま読み返してみると、このギデオンに対する神の譲歩は、神が私たち一人一人に対して、どれほど執着しておられるのか、その恵みを教えてくれます。ギデオンがいかに臆病だろうが、どれだけ反抗的であろうが、神の選びは取り去られることがないのです。ギデオンが選ばれたのは、彼の人格的な素晴らしさではありません。体力や能力ではありません。生まれた家系によるのでもありません。ただ永遠の昔から定められた神のご計画であるがゆえにギデオンは選ばれました。そしてその選びの恵みは、そのまま私たちにもあてはまるのです。 かつての私たちは、このときのギデオンのようでした。自分の感覚や判断だけを基準にして生きていた者たちでした。ギデオンは、神の招きに対して、神はイスラエルを見捨てた、とか、自分はマナセの一族の中でも最も小さく、若いからふさわしくない、とか言って断り続けます。神の招きに答えるならば、そんなことはまったく何の問題にもならないのですが、救いの恵みも知らないがために、とにかく神を認めず、拒み続けたのが、かつての私たちであり、今の多くの人々の姿です。しかしそれでもなお、神は決してあきらめません。神がここまで譲歩する必要があるのか、と思うほど、神は自らへりくだり、ギデオンの願いをすべて受け入れます。じつは私たちの救いも、そういうものなのです。多くの人、あるいはクリスチャンでさえも、信仰は窮屈なものと考えています。しかし実際の所は、自分で窮屈にしてしまっているのです。神が私たちに与えてくださったのは、自由です。こう生きなければならない、こういう人間であらなければならない、という枠ではなく、神の招きに答えるならば、そこには小さいとか弱いとかそんな人間的な評価は一切関係ない、ただ神が私たちを選んでくださったという恵みと喜びが訪れます。 神は私たちができないことを命じません。ただ信仰をもって決断さえすれば、後は神がすべてを支え、導いてくださるのです。「ドミノ倒し」というものを見たことがあるでしょうか。気が遠くなるほどの数の、小さなプラスチックの板を、何日、何ヶ月もかけて並べていく姿をテレビで見たことがあります。そして並べ終えた後、一つのドミノを倒すと、次々に放射線状に倒れていき、倒れたドミノが絵を描いていく、そんなスペシャル番組がありました。あの「ドミノ」は、もともとは「ドミニオン」という言葉から生まれています。ドミニオンとは、神の主権という意味です。私たちの人生は、数千、数万、あるいは数億のドミノ板を並べていくようなものです。そして私たちはそれを並べるのは自分自身だと考え、人生は努力が大事だと言います。しかし実際の所、それを並べてくださっているのは神です。私たちにはそれが目も止まらぬ早さで倒れて美しい絵を描いていく、その設計図はわかりません。ただ、神は、最初の一つの札を倒すというその決断だけは私たちの仕事として与えてくださっています。神の招きに答えること。その後は、すべて神が責任をもってくださいます。 ギデオンがああだ、こうだと返す言い訳を、神はすべて受け入れました。そしてギデオンは、私と話しているあなたが神ご自身だという証拠に、奇跡を見せてくださいということまで言い出しました。それでも神は、神を試そうとするギデオンを叱責することなく、「あなたが戻ってくるまで待つ」と言われました。そしてギデオンが持ってきた供え物を一瞬で焼き尽くします。そこでようやくギデオンは自分が神に対してどれほどの高慢を働いてきたのかを知り、神の招きに答えることを選び取ったのです。 神にしるしを求めること、つまり目に見える証拠を求めることは、罪ではありません。私たちはどんなに途方もないように思えることであっても、父なる神さまに求めることができるのですから。しかし同時に私たちは、目に見える証拠がなくても神を信じることができる信仰を与えられました。目に見える証拠によって信じるのではなく、神のことばを信じる信仰です。この主日礼拝や祈祷会、あるいは日々のディボーションや聖書通読、暗唱聖句など、あらゆる信仰生活の営みの中で、私たちはみことばを聞き、そしてそのみことばを信じます。現実は変わらないように見えても、みことばを信じ続けるとき、私たちの中で確実に何かが変わっています。外側の世界が変わらなくても、私たちの内側が変わるとき、それは外側の世界をも確かに変えていくのです。ギデオンが神を信じたとき、ミディアン人を恐れて生きていた彼の生活が変わりました。そして彼が変えられたとき、彼の家族が変えられ、そしてイスラエル中から人々が彼のもとに集まってきました。それについては、また来週、一緒に聖書から学びたいと思いますが、神さまは私たちのためにあらゆるものを用意し、与えてくださるお方なのだということを忘れずにいきましょう。私たちの教会は、いよいよ新会堂について具体的な工事に入っていきます。どんな教会を生み出したいのか、どんな教会に生まれ変わることを望むのか、それもそれぞれが神さまから与えられている特権です。神さまを喜び、神さまに信頼し、私たちの願いを神さまにささげていきたいと思います。一人一人を何よりも愛し、ご自分の働きのために用いようとしておられる、神の招きに答えていきましょう。