みなさん、おはようございます。今週も、都上りの歌の中から、私たちに向けて語られているメッセージを受け取っていきましょう。 「都上りの歌」というのは、旧約時代のイスラエルの人々が、礼拝の時に歌ったものでありますが、この130篇および131篇は、少し特別なものです。ここでは「私」という言葉が強調されています。「私たち」という主語で賛美されることが多い都上りの歌の中では、珍しいと言えるかもしれません。しかし、ここで、それこそ私たちは、立ち止まって考えるべきでありましょう。 何を考えるかというと、礼拝を通して神が語られようとしている相手は、あなたの隣の人、あなたの子どもたちではなく、あなた自身であるということです。ある牧師の体験談、その一、教会員から「先生、求道者にもっとわかりやすいメッセージをしてください」。体験談その二、教会員から「先生、子どもたちが理解できるようなメッセージをしてください」。これは牧師であれば、だれでも一度は経験するものです。逆に言えば、みなさんが信徒として、そういうことを思ったりしたことも一度はあるだろうということです。もしかしたら毎回、という人もいるかもしれません。しかし礼拝のとき、私たちが考えるべきは、この話は教会初めての人にわかるかな、とか、子どもたちにわかるかな、ということではありません。私に何と語られているか、ということです。礼拝において、神は私にこう語ってくださった、という信仰の証があり、それを求道者なり、子どもたちなりに伝えるほうが、よほど建設的でありましょう。 この詩篇が実際にイスラエルの神殿礼拝で歌われていました。礼拝者一人一人が、声を合わせてこう告白しました。1節をご覧ください。「主よ、深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ、私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。」 「深い淵」とは何でしょうか。19世紀の後半に活躍したドイツの哲学者に、フリードリヒ・ニーチェという人がいました。彼の有名な言葉に、「あなたが深淵をのぞくとき、深淵もまたあなたをのぞいている」というものがあります。何のことを言っているのかよくわからないというのが哲学者のあるあるですが、ニーチェが深淵、つまり深い淵という言葉で表現したものは、自分自身の心、しかも底が知れぬほど深く、真っ黒な水に覆われている淵なのだろうと思います。自分自身の心を探っていけばいくほど、そこにはふだん人前で見せているものとはまったく裏腹の、暗くよどんだものを見ることになる、ということかもしれません。人間は、自分自身の中に、そのような暗いものがあるとは考えたくないし、受け入れたくない。だけど本当の自分はそこにいて、暗い淵の底から、現実を見ようとしない今の私を見つめている。 しかし聖書では深い淵は、自分自身の暗い内側を表すと同時に、神の底知れない愛をも表します。言い換えると、自分自身の中にある、罪を正面から見つめることができるとき、そこではじめて私たちは、神の愛が深淵よりもさらに深いもの、私のような罪人をも決して見捨てることがなく、底の底で大きな御手で支えてくださっているということに気づかされるのです。3節をご覧ください。「主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」。「不義」とは「罪」を意味します。すべての人は、不義の中に生まれてきます。ただ自分では気づきません。あるいは気づいても、公に認めることができません。そして不義、すなわち罪は、どんなに他人にはうまく隠しているつもりでも、確実に自分を傷つけ、周りを汚し、腐らせていきます。 私たち、つまり日本人が幼い頃から教えられてきた神は、いわゆるお天道様でした。太陽という意味ではなく、隠れたことも全部見ている存在、ということです。そしてその隠れたことに対して、バチをあてることで、世間の善人、悪人のバランスをとっているという存在です。聖書の中にも、確かに神は私たちの隠れた罪を必ずさばかれる、と書かれています。しかし聖書の神が、日本人の宗教観と明らかに違うところは、私たちの罪をさばくことよりも、私たちの罪を赦すことにご自分の存在をかけたお方である、ということです。まことの神、イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださいました。私たちが悔い改めたから十字架にかかってくださったのではありません。私たちが悔い改めるより先に十字架にかかってくださいました。そこに神の愛が表されています。 罪を悔い改めれば、許そう。じつは神の愛はそうではありません。先に赦しておられます。しかし赦されたことがわかったとき、私たちは悔い改めずにはいられません。いや、悔い改めずには、というよりも、これほどの愛に満ちた方を、恐れずにはいられない、ということかもしれません。4節でこう歌われているとおりです。「しかしあなたが赦してくださるゆえにあなたは人に恐れられます」。私たちの罪は、自分では決して解決することができません。しかしイエス・キリストが私の代わりに十字架でさばきを引き受けてくださったということを信じるとき、私たちは今まで自分を苦しめてきた罪の数々が、もはや私たちを縛ることはできないのだということを確かに知るのです。 この詩篇130篇と131篇は、二つに分かれてはいますが、そこに込められている叫びはひと続きになっています。私はただひたすら主を待ち望む。深い淵の底から、神が私の苦しみをすべてあがなってくださることを待ち望む。そして待ち望む者の模範として、乳離れしたばかりの子の姿が描かれています。 新約聖書の中に、イエス・キリストが幼子たちをそばに来させよと、弟子たちに命じておられるところがあります。それは前置きがあって、弟子たちが子どもたちがイエスに近づくのを禁じたことがあったのです。そのとき、イエスは激しく怒りました。天の御国は、幼子のような者たちのものなのだ。彼らを決して遠ざけてはならない、と。幼子のような者とは、何を意味するかというと、ただ神に依存している者です。神に頼り切っている者と言っていい。神がいなくては何もできない。神が私の人生におられなければ、人生そのものに意味がない、と言い切ることができる者たちです。幼子が親に頼り切っているように、ひたすら神に頼り切っている者たちこそ、天の御国に入る者たちなのだとイエス様は教えられました。 私たちは、神さま以外のことは何も知りません。何もわかりません。しかし神のことなら、何でも知っている、と言えるくらいに、一日の初めから終わりに至るまで、神に頼り切って歩んで行けたら、幸いです。イエス・キリストが、私たちを深い淵から引き上げてくださいました。いま、主の前に静まり、心を神様に向かって明け渡しましょう。私のすべてを知っておられるお方が、私の罪を赦し、恵みを与えてくださっていることに感謝をささげましょう。