みなさん、おはようございます。今週も礼拝メッセージは都上りの歌からですが、今日の説教題である、「一つになってともに生きる」というみことばを、この2025年の教会の目標聖句とすることを考えております。 少なくとも今年中には、新会堂への着工が始まると信じています。予算的には、今すぐにでも工事に入ることができるくらいには来ていますが、あともう少し、建築事務所と私たちとですりあわせなければならないことが残っています。しかし工事が始まれば、この建物を含めて、敷地を更地にし、駐車場とした状態で、向こうのかやま会堂で半年間以上、礼拝を行うということになります。向こうには駐車できるスペースはほとんどありません。礼拝者は、ここに車を停めて、乗り合わせて、向こうに移動することになります。そのためにときわとかやまのあいだを車を往復してくださるドライバーの奉仕者、輸送がスムーズに行くようにコーディネートする奉仕者も改めて必要になります。さらに工事が始まれば、工事関係者に対する毎日のねぎらいとか差し入れとか、そういうことも当番制で行うということも発生するかと思います。 そういう意味では、工事が始まればようやく息がつけるとかではなくて、そこからのほうが、各信徒が協力していかなければならないものが出てきます。今まで経験しなかったような奉仕や、あるいはトラブルも生まれてくるでしょう。だからこそ、私たちは、自分たちがひとつの家族であり、ともにイエス・キリストによってつなぎ合わせられた者たちなのだということを改めて心に刻みつけていきましょう。その目標を思い巡らしながら、神が示してくださったみことばが、今まで一緒に学んできた都上りの歌のシリーズに含まれている、この詩篇133篇の1節でした。「見よ。なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは」。 日本語の聖書では訳されていませんが、じつはヘブル語の原文では、「一つになって」というところに「再び」とか「同じように」という意味が込められています。ニュアンスとしては、ただ「一つになって」という意味ではなく、「昔のように一つになる」とか「もう一度一緒に」という意味があります。日本人の感覚からすると、一つになってともに生きる、前の聖書では「ともに住む」と訳されていましたが、家族が一つの家に住んだり、一緒の食卓を囲むことは当たり前のように思われますが、イスラエルにおいては、家族が共に集まるということは普通どころか、奇跡そのものだったのです。イスラエルの歴史はモーセの頃から数えると約3400年くらいですが、その中で家族や国家が一つにまとまっていた時期は、本当にごくわずかでした。 いま、私たちはこの礼拝の中で、そしてこの教会というキリストのからだのなかで、おたがいがひとつにされています。私たちが一体感を感じているからそうだということではありません。だとしたら、私たちもまた自分の気分次第で離れてしまうでしょう。イエス・キリストが、十字架の犠牲、そしてよみがえりの事実を通して、私たちの救いが確かであることを約束してくださいました。救われるとは、私たちがばらばらに生きるのではなく、イエス・キリストに繋がっている一本一本の枝として生きることです。キリストに繋がっているならば、そこには喜びがあり、そこには自由があります。個性は一切殺されず、しかし一つにされたものとして歩みます。この詩篇133篇は、兄弟たちという言葉を使っていますが、それは文字通りの親族や民族を表すというよりは、霊的な繋がりを表します。ここにいる私たちは、今まで背負ってきたものも、いま抱えているものも、まったく違います。それでもなお、キリストにあってひとつとされているのです。 3節をご覧ください。「それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」イスラエルは、日本と違って四季がなく、一年の半分はほとんど雨が降りません。しかし農作物は、たいへん豊かです。それは、標高2800mのヘルモン山の頂、万年雪によって湿った空気が、他のより低い山々へとくだり、露がおりるのです。イスラエルの農業は、近代の灌漑技術の進歩もありますが、古代より、この露の恵みによって支えられてきました。イスラエルの人々は、露のなかに永遠の命の祝福を見ました。そして私たちは、この祝福が、いまや確かにキリストによって与えられていることを知っています。知っているだけではなくて、信じています。私たちも、このキリストを信じる信仰とともに、生きるのです。 続く詩篇134篇は、一見、この133篇から独立している詩篇に見えますが、兄弟たちがひとつとされた、という恵みが与えられた者たちだからこそ、歌うことのできる詩篇がこの134篇です。1節には、こうあります。「さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ」。 これはだれへの呼びかけでしょうか。巡礼者、つまり一般信徒への呼びかけではありません。祭司、レビ人といった神殿で仕える者たちに対しての呼びかけです。兄弟たち、すなわち、祭司もレビ人も民衆といった違いを超えて、エルサレム神殿に集められているすべての人たち、彼らが一つにされて、そしてお互いに呼びかけている姿がここにあります。これはまさにキリストによって一つとされた私たちに繋がります。私はみなさんを祝福します。そしてみなさんも私を祝福します。それがこの礼拝です。神さまが、ここに集うすべての人を祝福の担い手としてくださいました。キリストを慕い、キリストを愛する者はみながそうされているのです。 先週の日曜日、午後の事務的な打ち合わせも終わったあとで、教会のトイレに入りましたら、面白いものがありました。1月に誕生日を迎える方々のお名前が、きれいにデザインされた色画用紙の上に書かれていました。コロナ以降、愛餐会で誕生日をお祝いすることもずいぶんと中断していましたが、トイレにそれを掲示するというのは私には思いつかない発想でした。 しかし、これこそ、教会の醍醐味と言えます。牧師が考えもつかない発想が教会員から出てくる。確かに教会の第一の目的は、礼拝を行う所ですが、教会の至る所に、礼拝への応答を見つけることができます。トイレに貼られた誕生日表しかり、ある方は礼拝後にガリガリに凍った雪を一生懸命削っておられました。あら揺ることの背後に礼拝への各人の応答があります。そういう予想外のことがいろいろ積み重なって、教会が作られているというのは楽しいことです。今年も、それぞれが礼拝を大切にしながら、ともに一つに生きることを喜ぶ教会として、歩んでいきたいと思います。