みなさん、おはようございます。 今週の礼拝説教も、旧約聖書の詩篇の中から都上りの歌を、一緒に味わっていきたいと思います。 先週、宣教区の新年聖会が開かれまして、そこでのメッセージのタイトルは「心配無用」でした。これはその時聞いた講師の話ではなく、別の本からの受け売りなのですが、二千人もの人々のカウンセリングを経験した、ある心理学者が、もちろん守秘義務の範囲の中でですが、その二千件の悩みを分類したそうです。すると、まず全体の四割が、「絶対に起こり得ない、未来の出来事に対する心配」でした。そして残りの六割の半分、三割が「もう変えることができない過去の出来事に対する心配」、残りの三割は細かすぎるので割愛しますが、その心理学者が、これは本当に心配すべき大事なことだと考えるのは、全体の一割にも満たないということでした。もっとも聖書は、その大事だと思われる一割に対してさえ、それはあなたではなく神が心配してくださるのだから、すべて神にゆだねなさい、と言っているのですが。 しかし、二千人の悩みの約三割が、「もう変えることのできない過去の出来事に対する心配」であるということは考えさせられます。心配、というよりは、心がその過去の出来事に縛られてしまって、現在を楽しむことができない、ということなのでしょう。いかに多くの人々が、それによって、本来、私たちが神から与えられている幸いな人生を損なっていることでしょうか。だからこそ、聖書、とくに旧約聖書を、カビの生えた古くさい宗教の本、というイメージを捨てて、いま、生きづらさを抱えながら生きている現代の人々に対しても、神さまが愛をもって語られているものなのだということを私たちは忘れないようにしたいと願うのです。 ここには、決して変えられない過去を、そこにふたをするのではなく、神が乗り越えさせてくださったという恵みの体験に書き換えている姿が描かれています。1節をご覧ください。「彼らは私が若いころからひどく私を苦しめた。さあイスラエルは言え、と。「若い頃」、これをイスラエル民族の歴史にあてはめてみれば、エジプトで奴隷として過ごした時代となりますが、決して民族の歴史に限定する必要はありません。これは礼拝の中で歌われた、都上りの歌であるからです。礼拝は、公のものでありつつも、それぞれひとり一人の心と、人生に対して、神さまが個別に語りかけてくださるものです。「若い頃からひどく私を苦しめた」。自分の親に対して、そのような感情を捨て去ることができない人も決して少なくありません。そしてそれを普通ではない悪いことととらえる必要もありません。完璧な親はおらず、完璧な子もおらず、あらゆる人間は罪を抱えて生まれ、生きている以上、確かに私たちにはどうすることもできない、過去の傷や記憶があります。しかし他人にも自分にも触れさせたくないような傷や記憶に対しても、礼拝は、たとえ時間がかかってもそれを乗り越えさせていく力を与えてくれます。 私たちにとって礼拝とは何でしょうか。自分の心の中の最も苦い経験にフタをするのではなく、そこに神の御手を差し入れていただくのです。私たちが自分の内にある、最も苦い記憶の中に神が御手を差し入れてくださるに任せるとき、そこで新しいみことばが語られます。2節にはこうあります。「彼らは私に勝たなかった」と。あなたの最も苦い日々においてさえ、あなたの気づかないところで、神が支え、導いてくださっていたことを思い起こしましょう。 続く3節から4節では、私たちの心が土地にたとえられています。まず3節をご覧ください。「耕す者たちは私の背に鋤をあて長いあぜを作ったが。」 「耕す者たち」とは、背後から私たちの人生を傷つけ、掘り起こす人々、という意味です。「耕す」という言葉は、聖書ではもっぱらよい意味に用いられますが、ここでは他人を利用して私腹を肥やす行為にたとえられています。卑劣な犯罪行為で犯人が逮捕されたあと、近所の方が「あんなことをする人だとは思えない」とインタビューにコメントすることがあります。最近でも、職場の人間を自殺に見せかけて殺した犯人が、家では優しいパパであったとう報道がありました。おそらく、それは事実なのでしょう。私たち、あえて私たちと言いますが、人は身内に対してはどんなに優しく誠実であっても、他人に対しては限りなく残酷になれる、それが私たちの中にある罪の縄目、鎖が、目に見える形で現れた姿です。自分の人生をプラスにするために、人は他人の人生をどれだけマイナスにしようが、その過ちに気づきません。そのような人々が、己の欲望という種を撒くために、私の人生にあぜを作る。当時の農業では、あぜを作るときには、牛の背中に綱をゆわえつけて大きな鋤を引っ張らせました。人生を振り返ったときに、ひっかき傷どころではない、他人が私の背中から肉をえぐり出してあぜを作った、というほどに痛みが今も穴を広げています。 しかし神に感謝しましょう。4節にはこうあります。「主は正しくあられ、悪しき者の綱を断ち切られた」と。他人に利用されてきた苦い経験があなたから喜びを奪ってしまっていたとしても、私たちがイエス・キリストを信じるとき、綱は断ち切られます。過去そのものを変えることはできませんが、過去の意味を変えることはできます。神はみことばを通してあなたの過去を照らし、すべてが益となったことを示してくださいます。 この詩篇の後半は、本当に礼拝で歌われたのかと思うほどに、のろいの言葉が並んでいます。聖書、すなわち聖なる書にふさわしくないように見える、その激しい言葉の連続にとまどいつつ、しかしかつては私たちこそ、こののろいを受ける者たちであったことをおぼえます。しかしいま、そののろいはすべて消えました。それはどこに行ったのでしょうか。イエス・キリストが十字架の上で、すべて引き受けてくださったのです。そしてキリストはもはや十字架の上にはおらず、よみがえられました。私たちを苦しめていたのろいは、天の上からも、地の下からも、どこからも消え失せました。私たちの心の中にもないはずです。もし苦々しい傷がまだ心の中に残っていたとしたら、それはすべてキリストが背負ってくださり、もう私とは関わりがないものなのだと信じましょう。いまや私たちはのろいに苦しむ者ではなく、祝福を伝える者になりました。「あなたがたに主の祝福があるように」と高らかに叫ぶことができる人生へと歩み出しましょう。