みなさん、おはようございます。今日も、都上りの歌と呼ばれている詩篇のシリーズから、一緒にみことばを味わっていきたいと思います。 今日の詩篇は、「幸いなことよ」という言葉から始まります。じつは詩篇の第一篇も「幸いなことよ」で始まります。私が大学生のときに、聖書研究会でよく歌っていたゴスペルソングに、その第一編の最初のところをそのまま歌にしたものがありました。暗唱聖句は得意ではありませんが、これはフシがついているので、きっと今でも歌えると思います。「主の教えを喜びとし/昼も夜もその教えを口ずさむ/その人は水路のそばに植わった木のようだ」。 本当はもっと続くのですが、これくらいにしておきましょう。詩篇の第一編では、祝福の秘訣は、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人」と言っています。そしてこの詩篇128篇では、祝福の秘訣は、「主を恐れ、主の道を歩むすべての人は」と歌っています。 その違いは何でしょうか。 じつは、違いはないのです。言葉はもちろん違いますが、両者は同じことを言っています。主の教えを喜びとすることは、主を恐れることです。昼も夜もその教えを口ずさむことは、主の道を歩むことです。これは、クリスチャンにだけ、体験として理解できることかもしれませんが、主を恐れることは、主を喜ぶことでもあります。世の人は、恐れという言葉にはネガティブな印象しか持つことができません。しかし私たちは、神を喜ぶと同時に、神を恐れます。 三人の子を抱えた、あるご婦人がおられたそうです。長男は筋ジストロフィーという難病であり、その弟、妹にあたる二人の子も、心に問題を抱えていました。それだけではなく、彼女の夫は、この三人の子どもを受け入れることができず、暴力を振るっていました。彼女は、信仰を持っていましたが、心の中で「夫を殺してください」と祈っていたそうです。しかし礼拝の後に、彼女の様子がおかしいことに気づいた、一人の教会員が声をかけました。そのとき彼女は、「私はかごの中の鳥です。どうか出口が与えられるように祈ってください」と言いました。しかし同時にそのとき、彼女の心の中に、内側からこんな声が聞こえたそうです。「かごの中の鳥でも、歌えますよ」。 何年も後にその経験を振り返って、彼女はこう言っています。「あれは、私の中におられる、イエス様の呼びかけだと思います。でも、それはあの一人の姉妹が声をかけてくださったときに、私の心に流れてきたのです。どんなに苦しくて、出口がなくても、あなたは賛美できますよ、と」。 私たちが、神を喜ぶと同時に、神を恐れる。それは、神はこのように、私たちの力を越えたことをしてくださるお方であるがゆえに、私たちは神を恐れるのです。それは、恐怖ではなく、まさに恐れ敬う、というものです。そしてその喜びと恐れの中で、私たちは自分が一人ではない、神が生きておられ、そして神の家族の中で生きているのだ、と確信するのです。 この詩篇の一つ前の詩篇は、127篇です。それもまた有名な詩篇です。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の働きはむなしい」。私たちの一生懸命な日常生活に対して、「それはむなしい」と「ダメ出し」している詩篇です。じゃあどうしたら、むなしくないのか。ただ一生懸命働くだけでは足りない。まず神を求めよ。神のみこころを学べ。それがあれば、神はあなたの働きを通して、すべて必要なものを満たしてくださるのだ。それが詩篇127篇のテーマです。 そしてこの128篇は、そのテーマを、「家族」という視点の中で、さらに推し進めています。幸せって何か。恵みって何か。お金は幸せ以外は何でも買える。でもどんなにお金を積み上げても、幸せそのものは買えない。あなたにとって幸い、あなたにとって恵み、それは「あなたがその手で労した実りを食べること」だとこの詩篇は語っています。しかし注意してほしいことは、その実りとは、「ぶどうの木のようなあなたの妻」「オリーブの木のようなあなたの子どもたち」という風に、家族の祝福という視点で描かれていることです。 この詩篇が書かれた三千年前の世界では、飢饉や洪水、その他作物の出来不出来で、食べ物が手に入らないことは日常茶飯事でした。だからこそ、家族がともに一つの食卓を囲むということは祝福の象徴でした。現代社会は、飢饉どころか、食べ物が余っている時代です。不思議なことに、その日の食事も満足に食べられない子どもが七人に一人という社会でありながら、コンビニやスーパーでは期限をわずかでも切れた食べ物が容赦なく捨てられると言います。そしてそのようなこととは関係がないと思われる、経済的に普通の家庭においても、ともに食事をすることがきわめて軽んじられている時代でもあります。 そのような時代において、教会が、毎週とは言わなくても、ともに食事を分かち合う、いわゆる愛餐を二千年以上も守り続けてきたことは、この世に対する大きな証しではないかと思います。大学生の頃、週に一回、聖書研究会を行っていましたが、その日は必ず、近くのアパートに住んでいる兄弟のところに集まって、みんなでカレーを食べていました。聖書研究会には来ない人も、カレーを食べるからおいでというと来るのです。三十年以上も前の話ですので、今ごろカレーくらいで集まるような時代ではないと言われるかもしれませんが、何かを一緒に食べるというのは、やはり人の心を和ませるもののようです。 その意味で、先日のクリスマス祝会で、数年ぶりに本格的な愛餐をいただくことができたことは、大げさな言い方かもしれませんが、教会がよみがえったという印象さえありました。でもそこでも私たちが忘れてはいけないのは、ただ一緒にご飯を食べられてうれしいね、ではなくて、そこには「主を喜び、主を恐れる」という霊的な交わりがあってこその祝福であるということです。聖書に学びましょう。この詩篇が語る祝福は、シオン、エルサレム、イスラエルと町から国へ、民族全体へと広がっていきますが、その祝福は、ぶどうの木、オリーブの木にたとえられた、一つの家庭から広がっていくということです。そして一つの家庭の祝福が、「あなたの子らの子たちを見よ」と、三世代以上への祝福にも広がっていきます。神の祝福は家庭から社会へと広がっていくのです。 しかし現代の日本では、悲しいことに、家庭が子どもたちの居場所にはなっていないという現状があります。その中で多くの教会が、子どもたちや高齢者にとっての居場所作りということに取り組んでいますが、聖書は、彼らの居場所は本来それぞれの家庭であるということを語っています。ですから教会は、家庭の代わりに居場所になることが目的ではありません。彼らが家庭という居場所を取り戻していくためのお手伝いです。私たちも、この礼拝で恵みをいただいたら、それを自分の家庭に持ち帰るのです。みことばを家族と分かち合えていますか。もしそうでなければ、祈りましょう。神さまがみことばの門を開いてくださるようにと。祝福の秘訣は、私たちが神を喜びつつ、神を恐れること。そして祝福の水源地は、私たちの家庭です。私たちの教会が、家庭と社会を神の祝福へとつなぐための働きができるように、どうか私も用いてください、と祈りましょう。