みなさん、おはようございます。また、明けましておめでとうございます。 「正月は冥土の旅への一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」(一休禅師)。正月から死の話など縁起でもないと言われますが、めでたくもあり、めでたくもなしという下の句でことばをやわらげることで、いつ来るかわからない終わりの日へと心づもりをさせる、見事な歌です。私たちも、新しい年を始めるにあたり、終わりの時のことも考えておかなければなりません。しかし聖書によれば、「終わりの時は恵みの時」です。この世界に終わりが来ても、それは神の救いの計画が完成する、恵みの時なのだとイエス様は語られています。終わりの時はこの21章全体の中で語られていますが、今日はその導入を含めた、前半部分を一緒に学んでいきましょう。 終わりの日への導入として語られているのが、この2レプタをささげた貧しい女性の物語です。2レプタは、今日で言えば100円くらいです。それが彼女の全財産であり、しかも彼女はそれをすべて神殿の献金箱に投げ入れました。イエスはこの女性を「この人はだれよりも多くを投げ入れました」とほめました。それはこの女性が、神だけを見つめ、神にすべての希望をつないでいたからです。ところが弟子たちはそのイエスの言葉から何も学びません。やもめのことは忘れ、美しい神殿の姿をほめたたえるのです。じつはこの流れが、この21章を理解するうえで、たいへん重要です。2レプタをささげたやもめが、なぜ世の終わりの話の直前に語られているのでしょうか。それはまさに彼女こそ、終わりの時代においても決して惑わされない模範であるからです。わずかな、しかし全財産でもある、この2レプタに執着せず、それをすべてささげた彼女。目に見えるものにとらわれず、あらゆる希望をひたすら神につないで生きていく、このやもめのような人こそ、まことのキリストの弟子なのです。 私たちはいま、終わりの時代に生きています。イエス様が二千年前に地上に来られ、そして再び天に昇っていかれてから二千年間、教会ではずっと「いまが終わりの時代」と言われてきました。二千年も終わりの時代と言い続けてきて、いまだに終わりは来ていないのですから、人々が聖書をあざ笑うのも不思議ではありません。しかし神のご計画は永遠です。永遠に比べたら、二千年であろうが一万年であろうが、それは神にとって瞬きするくらいの長さでしかありません。むしろ、有限である人、そして信仰を持っているはずのクリスチャンが、終わりの時代を拒んだり、軽んじたりしないように、聖書は警告を与えています。この世の衣食住の必要に目をふさがれず、どんなときにもただ神につながって生きる人・・・・終わりの時代にふさわしい信仰者の模範としてキリストが認めたのは、直接の弟子ではない、このやもめでした。そして直接キリストに従っていた弟子たちは目に見える神殿の美しさに影響されているというのは皮肉ですが、警告でもあります。戦争や災害よりも、私たちが気をつけなければならないものがあるのです。それは外から私たちを攻撃するものではなく、内側から私たちを苦しめるものです。12節から15節をお読みします。「しかし、これらのことすべてが起こる前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。ですから、どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。」「世の終わり」には、あなたがたは迫害を受けるとイエスは言われます。しかし迫害そのものは、戦争や災害と同じで「必ず起こること」であり、「気をつける」ものではありません。本当に気をつけなければならないもの、それは迫害を恐れるあまり、貝のように口をつぐんでイエスを告白しないこと。あるいは迫害者たちにも納得してもらえるような説明の言葉を前もって準備すること。こういうものこそが、気をつけなければならないものだ、と言われているのです。戦争よりも、地震よりも、飢饉よりも、「気をつけなければならない」のは迫害から逃げたり、巧みな言葉によって迫害をすり抜けることなのです。 終わりの時代、神を知らない人々は、戦争やら地震のひとつ一つにあわてふためきます。しかし神を信じる者にとっては、終わりの時代の二千年間は、いのちの希望があふれていた時代でもありましたし、これからもそうです。この二千年間もの終わりの時代を通して、教会は常に迫害を受けてきました。しかしその中でイエスは主であるという証しがなされ、福音が全世界に宣べ伝えられ、永遠のいのちを信じる者が産み出されてきたのです。確かに、終わりの時代にイエスを救い主として信じるとき、16節にあるように、両親、兄弟、親族、友人にも裏切られ、殺されるような者たちもいます。しかしそれでもなお信じずにはいられないのはなぜでしょうか。しかしキリストの十字架は、たとえすべての愛する者を失っても、たとえすべての誇りを失っても、たとえこの地上のいのちを失っても、ひきかえにできないものだからです。かつてある有名な伝道者が、「イエス・キリストを信じたら、人生はバラ色になります。私など、バラ色になりすぎて、家族がバラバラになりました」と言ったそうです。しかし一度バラバラになった家族を、もう一度ひとつにしてくれました、それは人間にはできないことでした、と涙ながらに語ったと言います。 キリストを信じることは、人間的な利得で言えば、損のほうがはるかに多いでしょう。ですから多くの人々がなかなかキリストを信じない、というのは当たり前のことです。しかしその損得を越えて、たとえすべてを失っても、このイエス・キリストを信じ続けるという信仰にとどまらせてくださるのは、人間ではなく、神のわざ、聖霊の働き以外にはありません。忍耐もまた、聖霊の力に拠り頼む以外には決してできないことです。 ヘロデが約50年かけて再建したと言われるエルサレム神殿は、イエスが預言したとおり、紀元70年にローマ帝国の徹底的攻撃を受けて、消滅しました。いま残っているエルサレム神殿は、それから二千年のあいだに、ローマ帝国やイスラム教徒などによって再建されたもので、弟子たちがすばらしいとほめたたえた神殿がどのようなものであったか、その姿は残されていません。この世のものはいずれ壊れ、終わるのです。しかし終わらないものがあります。それが二レプタのやもめが望みをつなぎ、イエスの復活を信じた弟子たちが命をかけ、二千年のあいだ、教会が守り続けてきたものです。決して消えることのない永遠のいのち、決して終わることのない、永遠の御国に生きる、クリスチャンの特権です。この新しい年がどのような年になるかわかりません。かつてない災害が起こるかもしれません。しかし何があったとしても、それよりも気をつけなければならないことは、福音を語る口をつぐんでしまうことです。語ることばは聖霊が与えてくださることを信じ、一人でも多くの人々に福音を伝えていくこと、それを忘れずに歩んでいきたいと願います。