みなさん、おはようございます。今年最後の主日礼拝になりました。今日を含めて、残り三日となりましたが、皆様にとって今年はどのような年でしたでしょうか。今年、というよりも昨年になりますが、昨年は12月31日が日曜日でした。それで例年行っている元旦礼拝は行わず、何もない元旦を過ごしたのですが、何もなかったのは夕方まで。午後4時を過ぎたときに大きな揺れが起こり、携帯が津波警報を叫びました。能登地方地震です。それから一年が経とうとしておりますが、被災地では9月の豪雨災害の影響で、いまも復興が進んでいないと聞いています。 私たちにとって、来年はどのような年になるのでしょうか。何が起こるかはわかりません。しかし何が起こったとしても、それはすべて神の御手の中で起こることです。そして神さまは、私たちの人生に必要なことは、すべてみことばの中に隠してくださっています。本来は隠して、ではなくて、示して、と言うべきかもしれませんが、そんな簡単に示されているものではないので、あえて「隠して」と言います。聖書を丹念に味わうときに、隠されているものがみなさんの心の中に浮かび上がってきます。しかしその気になって聞かなければ、それは隠されたままです。ですから私たちは、今日も、明日も、聖書を丁寧に味わっていきましょう。みことばの中にこそ、私たちがどんなときでも感謝を忘れず、主を賛美することができる力が隠されています。 先週のクリスマス祝会では、教会学校の子どもたちや先生方が、クリスマスの物語をじつにかわいらしく、ひもといてくださいました。それを思い出しながら、今日はもう一度、クリスマス物語を味わってみたいと思います。クリスマスは、永遠の神であるイエス・キリストがこの地上に人としてお生まれになったことをおぼえる日です。それは、みことばそのものであるお方が、言葉を一切出せない赤ん坊として、家畜小屋にお生まれになったという不自由さを描いています。キリストは永遠の昔から、神であられました。この世界をことばによって作ったお方であり、この世界をことばによって保っておられるお方です。しかしその、ことばそのものであるお方が、あーとかうーとしか言えない赤ん坊として、この地上に来てくださいました。それは、ことばであるキリストご自身が、あえてことばを出せない、ゼロの地点から始められたということです。それを聖書は、キリストは、ご自分を無にしてお生まれになった、と語っています。そしてこのクリスマスの出来事を見つめるとき、かつてキリストが天の天で栄光にあふれた姿をもち、ことばによってすべてを支配していた姿をまのあたりにしていた御使いたちは、どれだけむせび泣いたことか、と思います。彼らは羊飼いたちの前で、歌いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」。 かつていと高き所におられたキリストは、いまやそのまばゆいばかりの栄光をかなぐり捨てて、この地上に来られました。それは、このキリストの犠牲によって、地の上に平和が訪れるためである、と。万軍の主、全宇宙の創造者、あらゆる被造物の支配者である方が、ベツレヘムという小さな町の、名もなき宿屋の馬小屋に、しかも産湯もゆりかごもなく、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされる。私たちは『荒野の果てに』という讃美歌の中で、「グローリー、インエクセルシスデオ」と歌います。それは栄光がいと高きところにいます神にあるように、という意味ですが、そこに込められている御使いたちの叫びに私たちは耳を傾けるべきでしょう。全人類のために、すべての栄光を捨てられた創造主よ、あなたがそこまでして救おうとされるこの人々に完全なる平和がありますように。そして我らが主に、とこしえまで栄光あれ、と。 毎年、年末になると多くの人々がコンサート会場に足を運びます。そしてベートーベンの第九、喜びの歌に耳を傾け、拍手をささげます。新潟でも、古町にあるだいしほくえつホールや、りゅーとぴあなどで、それを味わうことができるでしょう。そういう場所には、いわゆるドレスコードというものがあるようです。つまり、それっぽい、いい格好で来てください、というものです。しかし本物の喜びの歌、この二千年前にささげられた御使いたちの讃美は、当時の社会の中で最も貧しく、最も疎外されていた人々がその聞き手となりました。それは、名もなき羊飼いたちでした。彼らは羊の所有者ではなく、日雇いで羊の世話を任せられていた人々でした。何とか羊たちが獣に襲われずに明日の朝を迎えることだけが、彼らの生活のすべてでした。しかし救い主のメッセージは、真っ先に彼らに向けて届けられたのです。 主の使いは彼らに言います。「私は、この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来た」と。羊飼いたちは、民全体の中でも最も底辺に位置し、まったく影響力を持っていない人々でした。よりによってなぜ羊飼いを選ぶのか。王や貴族、学者たちに語ったほうがよいのではないか。しかし御使いは何度も繰り返します。「あなたがたのために生まれた、あなたがたは見つける、あなたがたのためのしるし」。すべてはあなたがたのために。それはすべての時代に生きる、あらゆる人々の言い訳をつぐみます。自分なんか社会に何の意味もない。自分は誰からも愛されない。自分には、神なんて関係ない。福音を聞いても、人々は決まってそのように救いを拒みます。しかしそうではない。主の救いが、あらゆる人々に向けられており、それが羊飼いのような小さく、弱い者であったとしても、例外ではないこと。そして羊飼いであっても、この良い知らせを伝えていく者となれるのだということを、神は教えておられるのです。羊飼いたちは、ベツレヘムの家畜小屋を一軒一軒探し回り、御使いたちの言葉を人々に知らせました。 世間では、クリスマスはとっくに終わりました。しかし教会は今週から降誕節が始まります。私たちにとってクリスマスは終わっていません。キリストが来られたというメッセージを、羊飼いのように、これからも語り続けていくのです。先週のクリスマス集会では、何名かの方が来てくださいました。そのすべての方が、この教会に来ておられる誰かに誘われて、礼拝に出席しました。私たちが誘わなければ、誰も来ません。私たちが伝えなければ、誰にも届きません。新しい一年も、この福音をしっかり握りしめて、人々に喜びを伝えていきましょう。