みなさん、クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、言うまでもなく、イエス・キリストがこの世界にお生まれになったことをおぼえる日です。それは、父なる神さまが、私たちすべての人間を救うために、イエス・キリストという救い主をプレゼントしてくださった日と言い換えることができます。しかし、ほとんどの人々は、このプレゼントを受け取ろうとはしません。人間同士のプレゼントは喜んで受け取りますが、そのおおもとであるはずの、神から人間に贈られた、世界で一番大きなプレゼントであるイエス・キリストを受け取ろうとはしないのです。
こういう話があります。今から二百年以上前、インドのある島に、イギリスから若い宣教師が派遣されました。島の人はみな馬鹿にして話を聞いてくれませんでしたが、ラムパウという、息子を事故で失った一人暮らしの老人だけが、この若い宣教師をかわいがってくれました。しかしイエスが救い主という話になると、しばらく不機嫌になってしまい、またほとぼりが冷めた頃に訪問すると喜んでお茶を入れてくれたり、という繰り返しだったそうです。
やがてこの宣教師が、本国に帰ることになりました。するとラムパウさんが、餞別だと言って、小さな箱を持ってきました。宣教師が中を見ると、大きな真珠が入っていました。
「こんな高そうなものは受け取れません」
「あんたを死んだ息子のようにかわいがってきたから餞別にあげたいんだ」
「いえ、受け取れません」
そんな押し問答を続けたあげく、ラムパウさんが怒ってこう言いました。「うちの息子は、この真珠を取るために深く潜りすぎて、死んでしまったんだ。この真珠は、息子が命と引き換えに握りしめていたものなんだ。それをあんたは、受け取れないというのか」。
するとそれを聞いた宣教師は静かにこう言いました。
「ラムパウさん、あなたはイエス様のことを話すときまって不機嫌になりました。でも、イエス様も、ご自分の命と引き換えに、十字架であなたを救ってくださったのですよ。私も息子さんの命である真珠を受け取りますから、あなたもイエス様のいのちである救いを受け取ってくれませんか」。
するとラムパウさんはひざまずいて、罪を告白してイエス様を信じました。そしてその宣教師が去った後、彼が島の人たちにイエス様を伝えて、救われる人々が起こされていったそうです。
一つ一つの贈りものにはドラマがあります。そしてその贈り物を通して喜んでもらいたいという愛がこもっています。私たち人間でさえ、贈り物にそれだけの愛を詰め込むのだとすれば、ましてや愛そのものである神さまは、いったいどれだけのものをその贈り物に詰め込んでおられることでしょうか。二千年前のクリスマスの夜、神さまは、とっておきのプレゼントを、その愛するすべての人間たちに贈ってくださいました。それが、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたみどりご、イエス・キリストです。
イエスの両親であるヨセフとマリヤは、宿屋に泊まることができず、家畜小屋へと身を寄せました。そしてそこで生まれたイエス様は、産湯につかることも許されず、布にくるんで飼い葉桶に寝かせられました。家畜小屋も、飼い葉桶も、最も神にふさわしくない場所の象徴です。糞尿の臭いが漂う家畜小屋の、唾液がこびりついているような粗末な飼い葉桶、しかしそこに救い主は生まれてくださいました。そしてそこから始まるキリストの生き方は、常に神にふさわしくないような場所におられる生活でした。罪なき方でありながら、罪人、取税人、遊女、社会からのけ者にされ、さげすまれていた人々に寄り添い続けてくださったのです。当時の偉い人たちはそれを見てこう考えました。もしイエスが本当に約束された救い主であれば、こんなつまらない人間たちの仲間になるわけはない。なぜなら救い主はこの全世界の王なのだから。
しかし彼らは勘違いしていたのです。神が真っ先に助け出そうとしていたのは、正しく生きている人々ではなく、人生を踏み外している人々でした。当時の人々がそっぽを向いていた、そんな人々にイエス様は手を差し伸ばし、傷つくまで愛を与え尽くしてくださいました。
その愛が、私たちひとり一人に向けられているのです。その愛を、私たちひとり一人は受け取ることができるのです。イエス様が向かっていった先は、飼い葉桶よりもさらに神にふさわしくない場所であった、十字架でした。そしてその十字架の上で、神のひとり子イエスは、神にのろわれた者として死なれなければなりませんでした。罪を犯したことのないお方が、罪人として死ななければなりませんでした。それは、私たちすべての人間の罪を、身代わりとして引き受けるためでした。そしてそれを信じる者は、すべての罪を許されて永遠に生きるのです。これほどのすばらしいプレゼントはありません。
私たちは生まれながらに罪を抱えています。大人になるにつれて着飾ることを覚えていきますが、光に溢れた神さまの前では、どれだけ装ってもあわれで、みすぼらしい者です。しかし自分のみじめさを認めている人は、最も神さまに近づいている人です。二千年前のクリスマスの夜、神さまから真っ先にプレゼントのお知らせを受け取ったのも、自分たちが貧しくあわれな者であることを知っている、羊飼いたちでした。み使いは彼らにこう告げました。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」。そして羊飼いたちは、さっそく立ち上がって出かけ、イエスを探し当てたのです。
今日、みことばを聞く私たちにも、想像を遥かに超えた、信じられない知らせが贈られています。それは、あなたが、このイエス・キリストを救い主として信じるだけで、あなたは永遠に、そして完全に救われるという知らせです。神の言葉を聞いてください。あなたの罪の身代わりとしてわたしはわがひとり息子イエス・キリストをあなたに与える。あなたが自分の罪によって永遠に滅んでしまうことをわたしは喜ばない。十字架で自分のいのちを捨てるイエス・キリストによって、あなたの罪をすべて赦そう。たとえあなたがどのような者であろうとも、ただキリストの十字架によって、私はあなたを赦し、愛し、すべての恵みを与えよう、と
クリスマスに、イエス・キリストがお生まれになったということ。それは、私たちを無条件に救いの中に招こうとしている、とっておきのプレゼントです。イエス・キリストを信じる者は、誰であっても罪赦され、救いをいただけるのです。どうかひとり一人が、このプレゼントを受け取ってくださいますように。