みなさん、おはようございます。待降節第三週に入りました。教会学校ではクリスマスのお話をしていますが、礼拝では続けて都上りの歌から信仰について学びます。しかし決してこの詩篇は、主イエスがこの地上に来てくださったというクリスマスから遠くかけ離れたものではありません。むしろ、クリスマスと聞くとどこか心に温かいものがわいてくるのと同じように、この詩篇には私たちの心を慰め、励ましてくれる言葉で満ちています。最後の5節、6節をもう一度お読みします。 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。 種入れを抱え泣きながら出て行く者は 束を抱え喜び叫びながら帰って来る。 もはや説明の必要もない、励ましの約束です。しかしあえて言うならば、私たちはこの「種」という言葉に注目してみましょう。「種」とは、じつは実そのものです。種は実の中に入っているのです。お米を想像してください。あの金色の稲穂に連なる無数の粒ひとつひとつが実であり、そして同時に種でもあります。種をまくというのは、じつは実をまくことに他なりません。しかし、もし実がわずかであったらどうでしょうか。つまり、わずかに結んだ実を種として来年へ向けて地にまくか、それともそれを今、食べてしまうか、という状況がしばしば起こりうるのです。食べてしまったら種はまけません。しかし結んだ実を種に回せるような余裕はない。それがじつは、この詩篇の背景でした。今日食べる分を犠牲にして、涙をもって種をまく。幼い子どもたちに食べさせる分を取り上げてまで、泣きながら畑へと出て行く。それは来年実を結ぶのを見る前に自分たちが飢え死にしてしまうかもしれない危険をはらんでいます。 しかし詩人はここで歌います。彼らは、喜び叫びながら刈り取る。彼らは束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る、と。多くの人々はこう考えます。将来がどうこうよりも、今日を生き延びることができなければ意味がない、と。しかしここで詩人はこう語っています。今日を生き延びることよりも、明日、種が芽を出すために私の命を削り取るのだ、と。明日、芽を出した種がやがて実を結んだ時、それを刈り取るのは、自分でなくてもよい。子でも、孫でも、と彼は考えるでしょう。しかし神は約束しています。「種をまく者自身が、喜び叫びながら刈り取る者となる。泣きながら出て行く者自身が、喜び叫びながら帰って来る者となる」。私たちが自分の命を長らえることを望まず、ただ次の世代に実を残すことを覚悟したとき、すでに神はその世代にも、その子や孫の世代にも続く、祝福の実を用意してくださっています。それが私たち自身なのです。 今日、犠牲の涙をもって種をまくならば、必ずいつかその実を結びます。大切なのは、明日何が咲くかは神に任せ、今日自分に与えられた責任を果たすことです。世の人々は、明日何が起こるかわからない、漠然とした恐怖感の中で、今日蒔くべき種籾を食べ尽くしています。今日を乗り切ればそれでいい。今が楽しければそれでいい。しかし私たちは今日、聖書のことばを聞きました。もはや笑い声をあげて種籾をむさぼり食うような生き方を選ぶことはできません。今どんなに涙を流しても、今どんなに苦しみの束を抱えても、それはやがて喜びと収穫の朝を迎えます。聖書はそれを何千年も昔から、信じる者に約束しているのです。 今日の詩篇をより豊かに味わうためには、この詩篇が作られた背景も正しく知る必要があります。シオンというのはイスラエルの都エルサレムのことですが、イスラエルはやがてまことの神を捨て、偶像を拝むようになりました。悲しまれた神によって、この国は一度滅ぼされます。エルサレムの都は廃墟となり、民をバビロンという国に七十年のあいだ、捕らえられました。この詩篇の背景は、その七十年が終わり、再び民がエルサレムに帰ってきたときのことです。人々は再びエルサレムを偉大な都にすることを志し、神殿も建て直されました。それは少し前までバビロンで奴隷として過ごしてきた生活を振り返ってみれば、夢のような出来事でした。人々の口には笑い声があふれ、喜びの叫び声が響き、周りの国々も、「主は大いなることをなされた」とほめました。 しかしその喜びの絶頂の中で、4節で詩人は歌うのです。「主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください」。「ネゲブ」とは、イスラエルの南に広がる乾燥地帯を言います。そこは一年が雨期と乾期に分かれ、乾期の時にはまったく雨が降らず、水のない川が広がります。しかし雨期が来ると、それまでの日照りが嘘のように、天から恐ろしい勢いで雨が降り注ぎ、あらゆるものを押し流していくような洪水さえ起こります。詩人が「ネゲブの流れのように私たちを元通りにしてください」と歌ったのは、悔い改めの洪水を起こしてくださいという意味でした。たとえ神殿が再建され、礼拝者が戻ってきても、そこに心から礼拝をささげる者たちがいなければ、意味はない。生活の繁栄を神の祝福と言うが、神を心から恐れる礼拝が生まれていなければ、意味はない。イスラエルの国には悔い改めの種をまき、悔い改めの実を結ぶ者たちが必要なのだ。それがなければ、本当の意味で元通りにはなっていない。そして、私たちが生きているこの国も、この時代も、そうなのです。 明日のために種をまくという言葉を、それぞれが受けとめてほしいと思います。今から二千年前、イエスはベツレヘムの馬小屋にお生まれになりました。永遠の神であられた方が、何も持たない、貧しい夫婦のあいだに、力なき赤子としてお生まれになりました。私たちがイエスを救い主として信じるというのは、この方が生まれたときに背負ってきた重荷を自分自身も背負うということです。それは貧困であり、嘲りであり、人のために自分のいのちを犠牲にする生き方でした。しかしそれでも神にしがみつき、種をまき続ける者は、やがてキリストが再び天から来られる時に栄光の冠をいただくことができるのです。今日、涙を流しながら、それでもキリストと共に、いのちの種をまく者は、やがて抱えきれないほどの束を持つのです。明日のために種をまきましょう。それは今日、だれかのために生きること。今日、自分が立っているところにみことばの種をまき続けるということです。必ず、それに答えてくれる人を、神は私たちに与えてくださいます。待降節の日々、それぞれが置かれた場所で神のことばを伝えていきましょう。