みなさん、おはようございます。 今日から、教会の暦は、待降節、英語でいうとアドベントに入りました。待降節は第一週から第四週までありますが、イエス様のお誕生を記念するクリスマス、12月25日に一番近い日曜日から遡って四回の日曜日を待降節としています。教会では、原則としてこのアドベント第一週からクリスマスリースを飾ったり、四連のキャンドルに火をともしていきますが、いまは世の中の人々のほうが先にお祝いしてくださっていますね。スーパーに行けば11月中からクリスマス商戦が始まっていましたし、先週も社協にバザーの寄付金を届けにいきましたが、すでにクリスマスのリースが飾られていました。 ただ、世の中の人々は、クリスマスという時期を楽しみにはしていますが、イエス様についてはそれほどではありません。意地悪な言い方をすれば、クリスマスに生まれた方がサンタであろうが、お釈迦様であろうが、だれでもいいのです。クリスマスという雰囲気を味わえればそれでよい。しかし私たちクリスチャンにとっては、イエス様がこの世界に生まれてくださったことが一番大事なことです。 毎年お話ししていることですが、このアドベントの時期は、一年で唯一、クリスチャンがイエス・キリストについて語ってもとがめられない時期です。普段は宗教について語ってくれるなという人々も、この一か月の期間だけは、クリスマスという雰囲気に吞まれるのでしょうか、イエス・キリストについて聞いてくださいます。一人一人が改めて、イエス・キリストを心の中に味わいながら、救い主のことを明かししていきたいと願います。 さて、アドベントに入りましたが、今日もメッセージは詩篇から都上りの歌の5番目です。「もしも主が私たちの味方でなかったなら」。さあ、イスラエルは言え。「もしも主が私たちの味方でなかったなら」。このような会話形式のやりとりは、まさに都上りの歌にふさわしく、礼拝の中で、祭司と会衆とで交互に朗読されたのだろうと思います。もしも主が私たちの味方でなかったなら、私たちはとっくの昔に敵に飲み込まれていただろう、と歌うのです。 私たちは、イエス様によって救われたという事実を振り返るとき、まさにこの詩篇の言葉と同じ問いかけを心に持つのではないでしょうか。もしもあの日、郵便受けに一枚のトラクトが入っていなかったら、もしもあのとき、クリスチャンである○○さんが私に話しかけてくれなかったら、あるいはもしもあの頃、私を苦しめていた問題がなかったら、私は教会に来ることはなかっただろう、私は救われていなかっただろう。そういう出会いが、私たちクリスチャンには必ずあるのです。「主が私たちの味方でなかったなら」、それは言葉を変えると、「主が私の人生の主(あるじ)でなかったなら」という意味です。 神は私の人生を導いてくださる。良いときにも、悪いときにも。人々の悪意が、洪水や濁流のように私に襲いかかってくるように感じたとき、しかし詩人はその背後にも神が私の主であるがゆえに恐れることはないのだ、と確信することができました。私たちの人生には、様々な事が起こります。あのことがなければ、私は教会に導かれることはなかっただろう、というトラブルもあれば、あの人との出会いがなければ、私は今も変わっていなかっただろう、というようなクリスチャンとの出会いもあったりします。しかしあらゆることを通して、神は私たちの人生を導いてくださっている、ということは変わりありません。 ところでこの詩篇の表題には「ダビデによる」とありますが、ダビデほど、人生の中で裏切りに直面した人はいなかったと言えます。自分を家来として取り立ててくれたサウル王とは、最初はうまくいっていましたが、やがて王から激しく妬まれるようになり、何年も逃げ回らなければなりませんでした。サウルの死後、彼はイスラエルの王になりますが、家族関係は決して幸せではなかったようで、後には自分の息子や、信頼していた家来にさえ裏切られるということも経験します。その意味で、「彼らは私たちを生きたまま丸呑みにしていたであろう」「荒れ狂う水は私たちを越えていったであろう」という表現は、人間の悪意、殺意、そういったものに人生の大半を巻き込まれていったダビデの生涯からにじみ出るようなものであったことでしょう。 しかしそれでも私たちは、「もしも」ではなく、実際に主が私たちの味方であるがゆえに、決して揺るがないということを忘れないでいきましょう。確かに人生には問題が次々と起こります。とくにクリスチャンの場合には、人々が気づかない、霊的な戦いというものがあることを認めなければなりません。聖書は、悪魔が吠え猛る獅子のように獲物を求めて、あわよくばクリスチャンさえも惑わして、信仰から離れさせようとしている霊的な戦いを語っています。しかしその中でも、6節にはこう約束されています。「ほむべきかな主、主は私たちを彼らの歯の餌食にされなかった」と。どんなに裏切られ、困難に直面しても、ダビデに用意されていた人生は、勝利のシナリオでした。クリスチャンの人生の中で起こる問題は、必ずそこに神の脚本があります。私たちが信仰によって必ずこう動くだろうということを神さまはすべて知っていて、そのうえでハラハラドキドキの脚本を私たちのために用意しておられます。悪魔の誘惑に負けて人生を失ってしまうシナリオは私たちには用意されていません。 確かに、人生の中には、まるで鳥を捕らえるために仕掛けられた罠のように私たちを待ち受けている試練があります。神さまは、私たちがその罠に捕らえられるところまでは許しておられます。しかしそこに捕らえられたままでいることまでは許しておられません。つまり、私たちは困難に遭う、困難の中で信仰が試される、しかしそこで信仰が必ず働き、その罠は破られて、必ずそこから自由に飛び立つことができるのです。今までの人生を振り返ってみてください。そういう経験が見つかるのではないでしょうか。それがあったからこそ、神さまと出会い、イエス様を信じることがで来たという人もいます。あるいはクリスチャンとして信仰生活を歩む中で、そんな神さまからの取り扱いを受けた人もいるでしょう。そのどちらにしても、神は私たちを滅ぼすのではなく、生かし、成長させるために幾多のことを経験させてくださいます。 ダビデは最後にこう告白しています。「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」。この天地を造られた主は、私たちがどこにいても助け出すことができるお方です。私たちを苦しめている問題がどんなに大きいように見えても、それよりもはるかに大きい方です。世の中では、数え切れない人々が、自分自身ではどうすることもできない問題に悩み、途方に暮れています。しかし私たちは、そのような人々に対しても、この天地を造られたお方にして、私たちのために十字架で命を捨ててくださった方、イエス・キリストの御名に生きる人生が与えられています。この方をだれかに伝えていく、そして悩みに寄り添っていく、そのような一週間を歩んでいきたいと思います。