みなさん、おはようございます。 今日は、第二礼拝の中で、子ども祝福式を行う予定です。七五三の教会バージョンといったところですが、今日の詩篇127篇は、都上りの歌であると共に、子どもたちが祝福であるということを歌っているものでもあります。 子どもたちが祝福をもたらしてくれるのではなく、子どもたちそのものが祝福だと言っています。私は子どもがおりませんので子育ての苦労というのを語る資格はありませんが、話を聞くと、やはり大変だなということを思います。ワンオペという言葉がありますが、夫婦共働きの中で、さらにお母さんのほうだけに子どもの世話が集中するということもあったりして、つらい思いをしている方もいるそうです。しかしそこで、この詩篇のことばを聞いてほしいと思います。主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きは、むなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りは、むなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それは、むなしい。一見、空しいという言葉が連続し、とても人の心を励ますようなたぐいのものには聞こえません。しかし、詩人は、主を認めなければむなしいと語っています。逆に言えば、あらゆる人生の営みの中に、主を認めるとき、それはむなしいものではなく、それ自体に祝福がある、ということを語っているようです。 家を建てることも、町を守ることも、がんばって糧を得ることも、それ自体は決してむなしいことではありません。問題は、それを私ががんばった、私たちががんばった、で終わらせてしまうことです。私、あるいは私たちで頑張っているように思われるとき、いちばんがんばったのはじつは神さまです。頑張ったという言葉が不適切であれば、最善へと導いてくださったのは神さまであるということ、それを認めなければ、すべてはむなしいのです。 今日の詩篇は「ソロモンによる」とありますが、実際にはこの詩篇で使われている言葉の特徴などから、これはソロモンの時代から約五百年後、ユダヤ人がバビロン捕囚から帰還し、エルサレムを建て直す時代に作られたものであると言われています。当時、エルサレムの町は廃墟となっていました。ソロモンが建てたと言われている神殿は、バビロン軍に壊されて瓦礫の山となっていました。エルサレムの町を取り囲んでいるはずの城壁も、打ち壊されたままでした。当時の人々は城壁の中に住んでいましたので、城壁が壊れているというのは、住む家がないということを意味します。自分の家さえ満足に建っていないのに、神殿を建て直すなど無理だ、という人々がいました。それでも神殿再建に立ち上がった人々も、家族みなが総出で、かわりばんこに寝ずの番をし、いつ襲われるかわからない緊張と不安の中で、神殿を再建しました。 それは何千年も前のイスラエルでの出来事ですが、今日の日本で言えば、自分ががんばらなければ家族が立ちゆかない、という必死な思いのなかで生きている方がたくさんいます。自分ががんばらなければ子どもたちを学校に行かせられない。自分ががんばらなければ、教会の赤字が収まらない。自分がしっかりしなければ、家族も町も守れない。確かにそうです。私たちの常識から言ったら、確かにそのとおりです。しかしこの詩篇は、私たちにこう伝えるのです。「主があなたのその働きをされるのでなければ、あなたがしていることはすべてむなしいのだ」と。 詩人は、建てること、守ること、勤勉な生活をすること、決してそれらすべてを否定しているわけではありません。問題はそれが主がなされ、主が備えられるということを無視して自分の力で進めようとすること、それがむなしいといっているのです。「主が建てるのでなければ」。私たちの力が必要ないという意味ではない。そして人間の努力そのものを否定しているわけでもない。しかし、私たちの想像を超えた、はるかな高みにおられる方。私たちの常識を超えた、すべてを変えることのできる力を持っておられる方。その主なる神が、私たち愛するもののすべての必要を知っておられる。そして、私たちが眠っている間に、すべてのことを備えてくださっている。 何という励ましでしょうか。このお方におゆだねすることができるのは、何という幸いでしょうか。信仰生活は「私が」ではないし、「私たちが」だけでもありません。すべてに先立つのは「主が」です。私たちの労苦のわざは、主がそれをなしてくださるという確信のゆえに喜びがあります。自分を第一とするのではなく、家庭を第一とするのではなく、教会を第一とするのでもなく、第一とすべきは、主なる神ご自身です。まず主を第一とするとき、ほかのすべては神が最善へと導いてくださいます。 この詩篇は、私たちにこう語りかけます。早く起き、遅く休み、苦しんで糧を得ようとする者よ。あなたの生活のすべてにおいて、主があなたの代わりになしてくださることを認めよ。そうすれば主はあなたに必要なものをすべて与えてくださるのだ、と。 最後に、後半部分を味わって、説教を閉じましょう。3節からは、子どもについての祝福が描かれます。見よ。子供たちは主の賜物、胎の実は報酬である、と。人は愛する子どもたちのために、家を建て、町を守り、糧を得ようとします。確かに親は、子どもたちを養い育てる責任があります。しかし子どもたちそのものが、主が与えてくださるものなのだ、と。親が責任という重荷に押しつぶされることなく、子どもが与えられることを豊かな祝福として受け取っていく幸いを、ここに見ることができます。若い時に子をもうけ、育てるということは、とくに現代社会では大変なことです。しかし若いときに生まれた子どもたちの特権は、親と一緒にいろいろなことを経験できるということでもありましょう。この詩篇においては、親と子が一緒になって、城門で敵と向かい合い、町を守る姿が、幸いとして描かれています。教会は、まさにそういうところかもしれません。まだ幼子でも、信仰においてはじゅうぶんに立派な戦士として、自分の両親や祖父母の世代とともに賛美し、祈り、聖書を学び、他者に仕えています。その世代を超えた、共通の姿を通して、私たちは神がすべてを備え、与えてくださるという確かな信仰を世に証ししていきます。 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の働きはむなしい。建てる者の働き、守る者の見張り、私たちのすべての労苦は、主なる神を自分の人生に認めてこそ、意味を持ちます。神が全部してくださるのならば、何もしなくてもよい、ということではありません。神が絶対的な主導権をもって、すべての働きを導いてくださるからこそ、どんな失敗も恐れずに挑戦していくことができるのです。そんな喜びと期待を胸にして、主の家を建てるわざ、主の町を守るわざに、私たちも加わっていきましょう。