おはようございます。 今日の午後に、会堂建設懇話会を行う予定ですが、そこでは具体的なことを話し合うというよりは、一人一人にとって、この会堂建設のために祈り、労してきたことに、どんな恵みが生まれたのかということについて分かち合いたいと考えています。たとえば、私たちはこの会堂建設において、教会債という聞き慣れないものを資金調達の一つとしてお願いしました。端的に言えば、教会員の方が、ご主人とか奥さんとか親御さんといった、普段はなかなか教会に来てくださらないご家族に、いま教会は新しい会堂を建てようとしているんだけれど、うちの家計から教会にお金を貸してもらえないかなと頼むことになります。このご時世、宗教がらみで十万、百万単位でのお金を貸すなどということは、おいおい大丈夫か、変な宗教じゃないだろうなという話になりかねません。私たちの教会で募集した教会債は1300万円です。教会員の人数や、置かれている経済状況などを考えると、これもたいへん高いハードルでした。 しかし募集に答えてくださった家族が多くおられ、ほぼ満たされております。その背後には、それぞれの教会員の方々の、家庭での信仰生活が、家族に対してどれだけよい証しを積み上げてきたかということが問われていたのだと思います。経済的に協力することができないという方も、代わりにどれだけ祈ってくださったことかと思います。懇話会では、そういう恵みの分かち合いをしたいのです。会堂建設は牧師の寿命を十年縮めると言いますが、むしろ何年か延ばしてくれたのではないかと、冗談ながら思うことがあります。神さまが私たちに志を与えてくださり、そしてそのとおりに道を開いてくださいました。皆さんの信仰に、牧会者である私自身も励まされました。そのような感謝を胸におきながら、本日の聖書箇所を一緒に味わっていきたいと願います。 この歴代誌第二の2章は、いよいよ、ソロモンが神殿建設に具体的に着手するところです。数週間前に開いた1章のところでは、ソロモンが神から知恵と富を与えられたことが書かれていました。しかし今日の前半の、ソロモンの言葉を読んで、こう思います。この世の知恵というのは、俺は何でも知っている、と人を高慢にさせるが、神がくださる知恵というのは、むしろ人を謙遜にさせるのだ、と。ソロモンは、ダビデの古い友人であるヒラムに、使者を送ってこう言わせました。5節、6節をご覧ください。「私が建てようとしている宮は壮大なものです。私たちの神は、すべての神々にまさって大いなる神だからです。しかし、だれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょう。天も、天の天も主をお入れできないのです。主のために宮を建てようとする私は何者でしょう。ただ主の前に香をたく者にすぎません。」 どんなに大きな建物を建てたとしても、それはとうてい神を迎え入れるほどのものにはなりえない。どんなに立派な神殿を建てても、それは神の栄光に比べたらカスのようなものだとソロモンは知っていました。そしてその神殿を建てようとしている自分も、何者でもなく、ただ主の前に香をたく者にすぎない、と彼は告白します。主の前に香をたけるのは祭司だけですから、ここでソロモンが言っているのは、私はただあなたを慕い求めている、礼拝者のひとりにすぎない、という意味です。しかしどんなに小さな者、いや、神に比べたらいかに無力な者であろうとも、私は神の宮を建てることにすべての力を尽くします、そういう決意がここにはあふれています。私たちも、それぞれが持っている賜物や、献げることができるものには個人差があります。しかしそれぞれがそれぞれにできることに力を尽くすときに、そこには必ず神が喜んでくださるという確信がついてくることでしょう。 いま、それぞれがそれぞれにできることに力を尽くすと言いました。これはとくに会堂建設という大きな予算が必要とされることにとりかかるとき、大事なことであろうと思います。たとえば三十人の教会員が三千万円で新会堂を建てる計画を立てたとき、それはひとりが百万円を出さなければならないとうことでは決してないということです。二百万円を献げる人もいれば、まったく献金できないという経済状況の人もいるでしょう。それ自体はまったく問題ではないのです。しかし、そのなかで自分にできることはなんだろう、自分にささげられるものはなんだろう、と一人一人がそれぞれの信仰に応じて自ら考え、神に向き合っていくときに、そこには最善が生まれます。「もう少しお金があれば」とつい口から出てくることが何度もありました。しかしお金がどれだけあっても教会は建たないということも知っています。お金よりも大事なもの、それは一人一人の献身、身をささげて、自分にできることを駆使していくということなのでしょう。その中に、神は働いてくださいます。ある教会では、私たちの教会からの献金要請が届いた後、専用の献金箱を作ってくださり、三ヶ月のあいだ、それを受付の一番目立つ所に置いてくださったそうです。他の教会でもそうなのですから、うちの教会の、見えない所で、一人一人が労してくださったことと思います。話せることもあれば、話せないこともあるかもしれません。しかし神は、見えないことにさえ、必ず報いてくださいます。 最後に、この神殿建設が、イスラエル人だけではなく、あらゆる外国の民も巻き込んだものであったことをおぼえたいと思います。ツロは偶像を神として拝んでいた国でしたが、ソロモンは神殿建設への協力をヒラムにお願いしている言葉は、信仰を大胆に伝えるものになっています。たとえば、私は、私の神、主の御名のために宮を建てる。この神は天地の神であり、天の天も、この方をお入れすることはできない。これらの言葉は、彼が父ダビデの古い友人であるヒラムに対して、ソロモンがまるで個人伝道をしているようにも聞こえます。対するヒラムの言葉は、外交辞令かもしれませんが、それでもこの申し出を喜び、「天と地を造られたイスラエルの神、主がほめたたえられますように」とあいさつを返しています。ソロモンは後に信仰から離れていってしまいますが、このときは父ダビデの信仰に倣おうとしていました。そしてそれはダビデの友人であったヒラムにとって、まことの神を信じていたダビデだからこそ、その子であるソロモンも、この父の信仰に倣おうとしているのだという証しとして映っていたのでしょう。 私たちは某団体のように、訪問伝道に自分の子を連れて行くという偽善的行動をする必要はありません。しかし私たちが友人に証しをするとき、そこに実際に家族はいなくても、私たちの背後に家族が見えているかどうかは重要ではないかと思います。神を愛する者は、家族を愛します。その愛が、家族以外の人間関係にもこぼれていくのが伝道です。教会を建てるということは神の家族を建てること、そこから神の祝福が周囲のあらゆる人々にもこぼれていくことをおぼえながら、これからの一週間に向かっていきましょう。