おはようございます。今日の詩篇は、都上りの歌の4番目です。古来よりこの詩篇は、「希望のひとみ」という副題がつけられてきました。私はその日の説教題を何とつけるか、いつも悩むタイプですが、今回の説教はほとんど悩まずにつけることができました。「希望のひとみ」、美しいタイトルです。タイトルが美しくても説教の内容がそれに傷をつけることがないように、気をつけて語りたいと思います。 いま、この詩篇が古来より「希望のひとみ」という副題がつけられてきたという話をしました。そこには二重の意味がこめられています。ひとつは、私たちがどんなに苦しい状況の中に置かれていたとしても、天に向かってそのひとみを向けるとき、そこにはすべてを支配しておられる神が、天の御座に就いておられる姿を信仰の目によって見いだすのだ、ということ。そしてもう一つの意味は、逆に神ご自身が、私たちをいつもそのひとみで見つめておられ、私たちがどのような者であろうとも、そこに希望を見いだしておられるということです。先にこちらのほうからお話ししましょう。詩人は、この詩の後半の中で、私たちはさげすみで一杯です、安逸をむさぼる者たちの嘲りと高ぶる者たちのさげすみで一杯です、と告白しています。これを私たちに敵対する人々からの攻撃として考えることもできますし、実際にそれがこの詩篇が作られた時代の状況だったのでしょう。しかし私たち現代に生きるクリスチャンにとって、ここはまた別の意味で捉え直すことができるのではないでしょうか。それは、私たちの内側がさげすみで溢れている、というのは、他の誰でもなく、自分自身で、自分をさげすみ、身動きが取れないほどにがんじがらめにしてしまっている、ということです。 言い換えると、自分自身に価値を見いだすことができない、今日、多くの人々を苦しめている、見えない病の姿です。そして、その原因がどこにあるかと言えば、それは私たちが生まれたときからこの心に宿してしまっている、罪の原理にあります。罪は、内側からたましいを責め立てます。おまえは何をやってもだめなやつだと落胆させ、失望の刃を容赦なく突き立てます。自分自身の心の中にある罪が、私たち自身を責め立てるとき、神を知らない人々は、外側にはけ口を求めます。誰かの欠点をことさらに強調し、批判し、自分はその人よりもましだと自分に言い聞かせようとします。他人に責任を押しつけていられるあいだは楽なのです。「安逸をむさぼる者たち」は私のことではなく、他の人のことだとうそぶいていられる余裕があるうちは、まだ何も見えていないのです。信仰を持っていればそうはならないと決して言い切れないところに、私たちの罪の根深さがあります。しかしそれでもなお、私たちは、たとえ私たちがどのような者であったとしても、神は天の御座から私たちをそのひとみで見つめておられ、私たちに希望を持っておられるという約束を、この詩篇から信じることができます。なぜ神は私たちに希望を持っておられるのでしょうか。それは、実際にイエス・キリストを宿している私たちだからこそ言えます、私の中に、神の一人子イエス・キリストがいま、生きておられる、だからこそ私たちがどんな者であろうとも、神は私たちから希望を捨てないのだ、と。私たち自身の中に、何かよいものがあるということではなく、ただ私たちのために命を捨ててくださったキリストのゆえに、神は私たちの中に、この世界を罪から救い出す希望を見いだしておられるのだ、と。 そして「希望のひとみ」のもう一つの意味に戻ります。 神が私たちに希望を見いだしておられるように、私たちも、どんなときでも神に希望のひとみを向けています。新約聖書のヘブル人への手紙にはこうあります。「信仰の創始者であり、完成者である、イエス・キリストから目を離さないでいなさい」と。そしてこの詩篇123篇の作者は、神から目を離さない一つの例として、しもべたちの目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているというたとえを使っていることは注目に値します。 昔、こういう経験をしたことがあります。私が敬和学園の理事会に加えていただいたのは、今から十四、五年前のことでした。初めての理事会は、新潟市の万代シティにあります、某老舗のホテルの会議室で開かれました。めんどくさいなあと思いながら、会議に出ましたが、なんと本物のメイドさんが給仕してくださいました。秋葉原のメイド喫茶にいるようなアルバイトじゃないですよ。行ったことありませんが。本物のメイドです。当時、理事会の会議は二時間くらいでしたが、何人ものメイドさんが会議の間中、ずっと脇に立っていて、こちらが頼みもしないのに、的確なタイミングでコーヒーを注いでくださるのです。理事を引き受けてよかったなあと思いましたが、経費がかさんだのでしょうか、次の年からは大学の会議室で、セルフのインスタントコーヒーになりました。ただ思い出すのは、そのメイドさんたちは、私たちの動きを、こちらが意識しないように気をつけながら、ずっと見ていて、的確にコーヒー注いだり、いろいろとしてくださったのです。 私たちが神を見上げて生きるというのは、そのメイドさんたちのように見ていることを意識させないという必要はありませんが、彼女たちが常に、顧客が喜ぶことは何かということを考えながら仕事に努めていたことを参考になりました。私たちも、神を希望のひとみで見上げるということは、神が喜ぶことは何かを考えながら、神の御手を見つめ続けることかもしれません。私たちの人生には、もうすべてを手放し、逃げ出したいというようなことも起こります。しかし私たちは神の子どもであると共に、神のしもべであるということもおぼえておきたいと思います。苦しいとき、つらいとき、でもそれは神が私たちを整え、成長させ、組み合わせて、ひとつの教会を建て上げるために与えておられるチャレンジだとすれば、よくやった、よいしもべだ、と言われるように、神のために自分のすべてを働かせる者でありたいと願います。どんなに苦しくても、今私たちは神の御手の上にあるのだということを忘れることがありませんように。今週も私たちはこのひとみで神を見上げつつ、そして神が私たちをご覧になり、希望を抱いておられることをおぼえつつ、一人一人が置かれている場所で信仰の目をもって歩んでいきましょう。