こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
ちょっと前に、
自作のキャラクター(ニャスモ)をAIでいじりまくった結果を披露しましたが、
今日、ハードディスクを整理していたら、なんと私たち夫婦のスナップ写真をAI化した画像が出てきました。
正直言って、まったく似ていません。なので逆に安心して、お目にかけることができます。
ちなみに元ネタとなっている写真は、同盟教団発行の「祈りのネットワーク」に掲載されています。
教団関係者の方は、そちらと比較してみるのも一興かと。この黒いスーツの人(私)、どこ見ているんでしょうか。
何度も言いますが、まったく似ていませんからね。
とくに牧師夫人のほうにときめいて来られても困ル ウワッナニスルンダヤメレー
スミマセンデシタ
おはようございます。
私たちの教会では、8月から3ヶ月間、新会堂建設のための献金と教会債を募ってきましたが、いよいよ最後の週となりました。先週の日曜日、NBIスペシャルナイトという集会があって、そこで顔を合わせて多くの先生や信徒の方が「会堂献金、まだ受け付けていますよね」と声をかけてくださいました。それがもしリップサービスでなければ、来月にはドバーッと献金がささげられるはずです。しかし一応、10月末までが募集期間ですので、本日の会堂建設委員会、また来週主日の役員会で献金、教会債の最終報告をすることになります。しかしその結果がどうあろうと、必ず神のみこころは実現します。期待、あるいは失望するような現実の中でも、私たちの考えや常識をはるかに超える神の道が用意されています。これから毎月の最後の主日、礼拝説教ではこの「歴代誌 第二」の1章から7章までを約十回のシリーズで語りたいと考えています。そこには、古代イスラエルの王ソロモンが行った神殿建設について、つぶさに記されているからです。月一で、来年の夏くらいまでの説教計画です。
ソロモンもまた、決して完璧な人間ではありませんでした。そればかりか、神殿建設そのものが、後の彼が堕落する原因の一つとも分析できるくらいです。しかしそれでも神は、彼を通して建てられた神殿を受け入れてくださいました。人間の中には、例外なく、人の目には見えないほどの小さなゆがみが隠れています。しかしそれでも私たちが自分自身を神に用いてくださいと願うとき、神は私たちを受け入れられます。完全にきよい人間でなければ、神が用いられないということはないのです。ソロモンは神に知恵と富を与えられながら、堕落していきました。しかし彼が建設を志し、ささげた神殿は、神の恵みと慈しみを象徴するものとなりました。彼が手がけた神殿建設を通して、私たちもさらに励ましを受け取りたいと願っております。
さて、前置きが長くなりましたが、ソロモンが王となった後、最初に行ったことは、ギブオンに行っていけにえをささげたことでした。ここで大事なことは、彼が、すべてのイスラエル人と共に、いけにえをささげたということです。ギブオンにあった祭壇は、もともとは祭司が民の代表としていけにえをささげるためのものですから、決して大きくはないし、一個だけです。そこに全イスラエルが集まり、ソロモンが千匹のいけにえをささげたというのは、たとえると、今日の選挙で、鉛筆が一本しかない投票所に、数万人の有権者が長蛇の列を作るようなものです。千匹のいけにえをささげたとさらっと書かれていますが、とても一日で終わるようなものではなく、一日ぶっ続けでも二、三ヶ月かかるようなものだったかもしれません。しかしソロモンにとって、どれだけ時間がかかり、体力を使い果たしても、イスラエルの民みんなと一緒に、まず神の御前に集まり、まったき献身を表すいけにえをささげることが重要でした。すべての民が心をひとつにすることが神殿建設には不可欠でした。しかし聖書は、それ以上のことを私たちに教えてくれます。いけにえを献げた後、神はソロモンに「あなたに何を与えようか、願え」と、夢の中で尋ねられました。そのときにソロモンが答えた言葉に注目してください。10節をお読みします。「今、知恵と知識を私に授けてください。そうすれば、私はこの民の前に出入りいたします。さもなければ、だれに、この大いなるあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
最後のところで、「この大いなるあなたの民」という言葉が出てきます。「大いなる」は、神にもつながるし、民にもつながっている形容詞です。単に数が多いというだけではなく、まさに「大いなる」という形容詞がふさわしい、誇りと力にあふれた、あなたの民、という意味です。ソロモンは、民を尊敬していたのです。選挙の時だけは有権者に頭を下げますが、選挙が終わるとたちまち見下すような国会議員とは違います。彼はイスラエルの民を文字通り、慕っていました。尊敬していました。この大いなるあなたの民とは、彼の敬意と愛情を表現する言葉です。彼が知恵を求めたのは、若く、経験がなかったからではありません。一人一人が、神の誉れと栄光を表している者たちであるからこそ、あなたからの知恵がなかったならば、誰も彼らを治めることはできない、と言っているのです。教会をゼロから開拓し、約五十年かけて大教会へと育てた牧師が、引退の際に、牧会が長続きした秘訣を尋ねられ、こう答えました。「それは、私が常に信徒を尊敬し、信徒も私を尊敬してくださったからだと思います」。ソロモンはこのとき、二十歳そこそこの年齢であったと思われますが、彼は民を、神の似姿として尊敬し、仕えようとしました。そのために必要なものは、年齢でも経験でも、ましてや富や武力でもない、それはあなたからの知恵なのです」と神に願いました。神はソロモンの心に宿る謙遜さを喜び、知恵だけではなく、富と誉れも与えました。しかしその後のソロモンの転落を知っている私たちは、あえてここから警告を読み取りたいと思うのです。
彼が知恵を求めたことは、みこころにかなったことでした。しかし彼は父ダビデのように主に従い通すことができませんでした。神からの完全な知恵を与えられていながら、なぜそうなったのでしょうか。富を与えたのは神ご自身ですから、富が彼を迷わせたと単純に言い切ることはできません。彼が完全な知恵を得たにもかかわらず転落していったのは、知恵を自分自身の中で独占してしまったことにあります。
数十万の民を治めなければならないという点においては、ダビデもソロモンと同じでした。しかしダビデは、知恵を自分にではなく、自分の周りの人々にゆだねました。サムエル記や第一歴代誌には、ダビデが、いかに多くの人々の絆で生かされていたかが記されています。民を治める知恵については、預言者ナタン、祭司ツァドクやエブヤタル、賢人として知られたフシャイなど、ダビデの周りには、常に誰かが彼を支えていました。しかしそれに対してソロモンの記録には、彼が特定の人々の絆に支えられていたことを見つけることができません。確かに彼は民を大いなる者たちとして尊敬し、彼らにふさわしい王となるために知恵を求めました。しかしその知恵は、彼をむしろ孤独にしました。民を治めるために知恵を求めることは間違いではありませんでした。しかしダビデが自分にない知恵を与えられている人々を最後まで大事にしたのに対し、ソロモンははじめから助言者を不要としてしまい、孤独の知恵者として歩みました。その人生の終わりは、誰の意見も聞かず、誰も彼に意見しない、ひとりぼっちのライオンのような王の姿でした。
私たちはいま、こうしてみことばを聞いています。みことばは、神の知恵であり、神の力そのものです。しかしその力と知恵が、私の中だけで終わってしまうのであれば、それは人を生かすことはできません。信仰によって聞くみことばは、行いによって完成されるということを私たちは知っています。行いとは何でしょうか。それは、言うなれば、人との絆です。兄弟姉妹との絆、求道中の人々との絆、あるいは聖書を信じようとしない人々の間にも、私たちは絆を持ちます。人々を尊敬し、そこで自分が持っているみことばを働かせようと奮闘する中で、みことばは聞くだけのもので終わらず、血となり、肉となります。神がソロモンに知恵と富を与えました。それは、その知恵と富を自分のためにではなく、他の人と分かち合うため、知恵と富をお裾分けするためです。しかし彼は自分のために、自分の中だけで知恵と富を独占します。そんなつもりはなくても、結果としてそうなっていきました。
民は王を必要としていました。そして王も民を必要としていました。共に成長し、欠けを補い合う存在として、お互いに相手を必要としている、それが神の民であり、絆に生きるクリスチャンです。私一人ではない、みんなとともに。それが私たちが神さまから与えられた姿であり、そのために神は、それぞれ違った賜物を一人一人に与え、それを組み合わせて教会を建ててくださいます。みなが同じものを同じだけささげるという必要はありません。しかし何の賜物も与えられていない、という人も決しておりません。自分にはないけれども、他の人に与えられている賜物を通して、さらに自分の賜物が生かされていく、ということも、兄弟姉妹や人々との絆を大切にしていく信仰生活の中では起こります。感謝しつつ、これからの教会建設のためにも祈っていきたいと願います。