こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
明日10/19(土)の朝10:00~12:00まで、
ゲリラバザー&オープンチャーチをやります。
ゲリラっつうか、単にブログで案内するのを忘れていただけなんですけどね。
ご近所さんには、ちゃんと一週間前の朝刊折り込みでチラシ1800枚を配っています。
2時間しかやりません。良い品は開始10分で売れまくりです。よろしくお願いいたします。

おはようございます。今週から、礼拝説教では詩篇を扱っていきたいと思います。ずっと詩篇を最後まで、ではなくて、この詩篇120篇から136篇までの17篇、これらは通称、「都上りの歌」と言われております。モーセの時代、イスラエルが荒野をさまよった40年を終えて、カナンの地に定住したとき、神はイスラエルの民に、年三回の祭りを守るようにと命じられました。その三つの祭りを全部言える方がおられたら、よく聖書を学んでいる人ですね。春のパン祭り、じゃなくて、春は過越の祭り、その後すぐに初夏の五旬節の祭り、そして秋に行われる仮庵の祭り、です。それぞれの祭りの意味についてはいずれお話ししたいと思いますが、イスラエルの民はこの祭りの時期、村や家族ごとにツアーを組んで、全国からエルサレムへと上っていきました。「都上りの歌」とは、その旅を出発するときや、その途中、また神殿に迎え入れられる時などに、あるときは民自らが讃美し、またあるときには神殿の聖歌隊によって歌われたものでした。
私たち豊栄キリスト教会は、教会堂の建設を進めています。しかし忘れてはならないのは、教会堂とは礼拝堂であるということです。確かに今日の教会は、信者の交わりの場や、地域の人々の居場所としての場も求められています。しかし教会とは何よりも礼拝するところなのだという本質が薄められてはなりません。これからの時代、礼拝はより手軽な方法に変わられていくでしょう。オンラインで礼拝に参加することができるようになりました。大雪の日にまず自分の家の車を出せるように雪かきをし、教会に着いたら今度は教会の駐車場の雪かきをして、礼拝者を待つというような苦労をしなくても、家で礼拝を守ることもできるようになりました。しかし私たちは、イスラエルの民が年三回、あるいはそれすらもできずに、数年に一回、神殿に礼拝に行くのを人生最大の喜びとしていた彼らの姿をおぼえていきたいものです。
まず1節をお読みします。「苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった」。この詩の作者は、過去、苦しみの中で神に叫び求めたとき、神に助け出された経験を持っていました。信仰生活の中で一度でもそのような経験がある人は、どんな困難の中でさえも必ず助け出してくださる主に信頼し、失望することはありません。では今までの信仰生活の中で、一度も助け出された経験のない人はどうしたらよいのでしょうか。しかし、助け出されていないクリスチャンなど、一人もいないのです。
「都上りの歌」がエルサレム神殿への巡礼のときに歌われたものであることはすでに語りました。それはいわゆる、景気づけの歌ではありません。礼拝にふさわしい者となるために、自分の過去を遡って、忘れられていた記憶の下の深みにまで思いをめぐらし、恵みを取り戻すための歌、それが都上りの歌です。今までの信仰生活の中で、経済的危機を脱したとか、家族の問題が解決されたとか、そういうものはなくても、十字架でイエスさまが私のために死んでくださったという恵みよりも大きな恵みというものはありません。つまり、あらゆるクリスチャンは、お金の問題が解決したとか、家族関係が良好になったとかいったこと以前に、救いを受け入れたあのときに、確かに神に助け出された経験を持っているのです。そしてその十字架の恵みをかみしめて、そこで改めて自分を苦しめている具体的な状況を見つめ直したとき、じつはさっきまで私の心を苦しめていた問題は、いま、自分が永遠のいのちを与えられているという特権に比べたら、まったく何物でもないことに気づかされるのです。
イエス様は、弟子たちに祈りを教えてくださいとお願いされたとき、「主の祈り」を教えてくださいました。今も私たちが信仰に入ったとき、使徒信条と並んで真っ先に覚えるもの、それが主の祈りです。主の祈りは、「天におられる私たちの父よ」という呼びかけから始まります。イエス様が弟子たちにまず、天におられる私たちの父、という呼びかけを教えてくださったのは、天というだだっ広い空間に神がおられる、というイメージではありません。天よりも大きい、無限のお方が、父なる神です。「天におられる父」とは、天の真ん中に座っておられるお方という意味ではなく、私たちのいるこの地上をはるかに越えて、人の予想や想像を超えた、しかし私たちのために用意してくださっているありとあらゆる祝福を与えたくてたまらない、そんな父なる神が、イエス様の語られたお方です。私たちが自分の願いを神に祈るとき、確かにその祈りは聞かれています。しかしむしろ、私たちが願ったこと以上のことを神はとっくの昔に、私たちのために計画しておられます。私も、そしてみなさんも、今まで数え切れないくらい、神に祈ってきたことでしょう。その一つ一つを思い出すことは不可能ですが、私たちが祈ったこと以上のことを、神がしてくださったということはうなずくことができるのではないでしょうか。
私たちは、具体的な問題に対して、こうしてほしい、ああしてほしい、と神に祈ります。そしてその祈り自体は、自分が願ったような解決が与えられないことはあったとしても、その願い以上のことを神はしてくださったのだ、ということを、ずっと後から気づかされることがあります。信仰生活が何年、何十年経っても、相変わらずお金の問題では悩むし、人間関係ではしょっちょう土壇場に立たされますが、神はいつも私たちが想像する解決よりも斜め上のところから、考えもしなかった道へと導いてくださるのです。
次に2節をご覧ください。「私のたましいを、偽りの唇、欺きの舌から救い出してください」と詩人は祈ります。彼は回りの人々から、根拠のない中傷や批判を受けて苦しんでいたようです。しかし「救い出してください」という願いの後の、彼の言葉は、祈りというよりはのろいです。「欺きの舌よ、おまえに何が与えられるのか。それは勇士の鋭い矢、えにしだの炭火だ」と。「えにしだ」は当時、最高に長持ちする木炭を生み出す木として知られていました。つまり、決して燃え尽きることのない、終わりの日のさばきを表しています。まさに復讐を求める言葉であり、のろいの詩篇であり、およそ都上りの歌にはふさわしいようには見えません。しかし私たちの祈りの言葉には禁句はないのです。もちろん礼拝の公の祈りの中で、「あの人をさばいてください」とは祈りませんが、個人的な、神との密室の祈りにおいては、私たちは祈りを制限する必要はありません。どんなことでも祈ってよいのです。それが私たちと神様とのあいだに生まれている、父と子どもとの関係です。
創世記の中に、ヤコブという人が夜通し神の使いと格闘した物語が出てきます。多くの説教者が、それは私たちの祈りの象徴であると語っています。祈りはスマートである必要はないのです。神と殴り合うくらいであってもいいのです。私たちは、人にはとうてい聞かせられないようなものでさえ、神にだけは吐き出すことが赦されているのです。人間同士のやりとりの中でそんな話ばかり聞かされていたら、やがてまいってしまいますが、神は私たちの不平不満も永遠に聞き続けてくださるお方です。祈りというのは、タブーがありません。祈りの中で、あらゆることを神に訴えることができる、それがクリスチャン、神のこどもに与えられた特権です。
最後に5節をご覧ください。「ああ嘆かわしいこの身よ。メシェクに寄留しケダルの天幕に身を寄せるとは」。メシェクは、イスラエルからはるか北にある、現在のウクライナあたりにいた民、一方ケダルは逆にイスラエルよりも南にあたる、アラビア人の一部族です。メシェクとケダルはまったく別の所に住んでいる人々ですから、この詩人が実際にそこに住んでいたわけではありません。ここでは、同じ場所で生活を営んでいながら、自分が敵と見なされ、中傷や批判を受けながら生活していることを表しています。どんなにこちらが平和を望んでも、返ってくるのは敵対心だけ、そんな環境の中で彼は生きていました。もしかしたらそれは外国人に囲まれていたのではなく、同じイスラエル人でありながら、神を嘲って生きていた人々の中で暮らしているということであったのかもしれません。
なぜこのような詩篇が、都上りの歌、つまり巡礼歌に含まれているのでしょうか。それは、彼らはこの詩篇を歌いながら、かつてはそのような困難の中で都上りができなかった自分たちが今、エルサレムに向かうことができる恵みをかみしめたのでしょう。あるいは、今もそのような状況の中で、一緒に都に上ることができない同胞の痛みをおぼえたのでしょう。都上りが、私たちにとっての礼拝を表すとすれば、自分たちが礼拝に出席できることを感謝するとともに、出席したくてもできない人々のためにとりなすこと、また出席しようとしないクリスチャンの心が変えられるように祈りたいと思います。都上りから戻ってきた巡礼者たちは、上ることのできなかった者へ恵みを持ち帰ることで、彼らの困難な生活に霊的な励ましを与えたと言われます。私たちも、礼拝を通して受け取った恵みを、人々に分かち合っていく一週間でありますようにと願います。