おはようございます。今日は「主の居場所を用意せよ」というタイトルで、弟子たちが湖で漕ぎあぐねていたときの出来事から、みことばをともに分かち合っていきたいと思います。 さて、今日の聖書箇所に出てくる湖は言わずと知れたガリラヤ湖、面積は約166平方キロあります。この166平方キロがどれくらいの大きさかといいますと、新潟市の北区、東区、中央区を全部合わせたのと同じくらいだそうです。いわば西区にお住まいの兄弟姉妹は、ご自宅から教会までが、ガリラヤ湖を向こう岸へ渡るのと同じくらいの距離、と考えることもできそうです。もしその真ん中にぽつんと一艘の小舟で取り残され、しかも日も薄暗くなった頃に突然の嵐に襲われたとしたら、一体どのような不安をおぼえるでしょうか。 イエスさまの弟子たちがガリラヤ湖で嵐に遭うのは、じつはこれが初めてではありませんでした。このマルコの福音書の4章には、彼らがこのガリラヤ湖で嵐に遭い、舟が沈みそうになる経験をした様子が描かれています。しかしその時は、舟の中にはイエスさまが一緒に乗っておられました。しかし、今回は舟の中にイエス様はおられません。47節にはこうあります。「夕方になったとき、舟は湖の真ん中にあり、イエスだけが陸地におられた」。 私たちの人生にも、突如嵐がわき起こることがあります。それは経済的な問題であったり、人間関係や家族関係の問題であったりします。信仰を持っていれば何が起きても大丈夫と言いたいところですが、そうもいきません。人生の嵐の中で、私たちは「イエスだけが陸地におられた」という気分になります。つまり、私がこの嵐の湖の中で苦しんでいるのに、神さまはこんな私を見捨てて遠いところに行ってしまった、という孤独感に襲われてしまうのです。 しかし48節を見ると、弟子たちが知らないところで、イエスさまが確かに行動をされていたことがわかります。イエス様は、彼らが漕ぎあぐねているのを見ておられました。そして湖の上を歩いて彼らのところへ行かれました。神は、私のことなど見捨ててしまった、と私たちが絶望するとき、すでに神はそんな私たちに目を注いでおられます。私がこんなに大変なのに、神は一体どこにおられるのか、と文句をたれているとき、すでに神は私たちに近づいておられるのです。しかし同じ48節には、同時にとんでもないことも書かれています。最後のところです。「そばを通り過ぎるおつもりであった」。 助けてくれるのかと思いきや、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった、と。なんだよ、ひやかしかよ、と言われそうなほどの不可解な行動です。しかしこのことは、私たちに大事なことを教えています。それは、神に助けを求めようとしないならば、神もその人の前を通り過ぎるということです。 聖書には、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねていた、ということが記録されています。弟子たちの中にはもともと漁師をしていた者が何人もいました。その彼らが漕ぎあぐねるほどの風ですから、相当な激しいものだったのでしょう。私たちが、親や学校から受けてきた教えの中には、「困難が人を強くする」というものがあります。マンガの世界でも、部活での指導でも、社会に出たあとに上司からも「困難に耐えよ」と言われます。しかし聖書は、私たちがただ歯を食いしばって困難に耐えるならば解決、あるいは成長するとは教えていません。「困難の時には、わたしの名を呼べ」というのが神が語られたみことばです。困難そのものが人を強くするのではありません。困難の中で、自分の力で解決しようとする誘惑を断ち切り、神の御名を呼び求める人こそが、困難を決して無駄にしない、有益な人生を歩むことができるのです。 神に頼るのは弱い人間の証拠だという人々がいます。私たちクリスチャンはそんな人を見て眉をしかめますが、実際にはそれとよく似た生き方をしています。この程度のことならば、祈る必要もない。自分の力だけで何とかできる。あるいは時間がたてば、自然とよくなっていくだろう、と。イエス様は、そのように考えている人々の横を通り過ぎて行かれます。もともとイエス様は、弟子たちの苦しみを見て、彼らを助けるために舟に近づいてこられました。しかし舟に近づくにつれ、イエス様に見えてきたものがありました。それは何でしょうか。舟の中にはイエス様が乗り込む場所がなかったということです。実際のスペースのことではありません。弟子たちがあくまでも自分の力で何とかしようとしているがゆえに、イエス様がイエス様だとわからないのです。彼らが幽霊だと叫んだのは、心の中に主を受け入れる余地がなかったからです。主を認めず、主に期待せず、主に叫ぼうとしなかったのです。 弟子たちを助けるために来たのに、通り過ぎなければならなかったイエス様。私たちは同じ痛みをイエス様に味わわせてはなりません。どんな困難であっても、脱出の鍵は、自分の心にイエス様を受け入れるスペースを造ることです。弟子たちは、オールや帆柱、かじを引っこ抜いてでも、イエス様が乗り込めるスペースを造るべきでした。オール、帆柱、かじ、それは人生の船を自分で乗り切ろうとする生き方の象徴です。しかしそれらは嵐を鎮めることはできません。嵐が静まるためには、私たちの心にイエス様が乗り込んでくださらなければなりません。ただ主に叫ぶこと。助けてください。救ってください、と。 自分の力でなんとかしよう、それはじつは一番楽な方法です。信仰が必要ないからです。しかしどんな小さなことでも主の名を呼び求め、心の中にキリストの居場所を用意すること。そこに困難を乗り越える鍵があります。聖書に学びましょう。聖書は弟子たちについてこう述べています。52節、「彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである」。心が固く閉じていたからこそ、神に助けを叫べなかった。心が固く閉じていたからこそ、水の上を渡って来てくださった神を、幽霊と間違え、おびえてしまった。心が固く閉じていたからこそ、彼らを助け出そうとされた神の愛が、わからなかった。それに対して、54節以降では、弟子たちが心の中で見下していた群衆の姿が描かれています。それは弟子たちとはまったく対照的な姿でした。イエスを幽霊だと勘違いした弟子たちと反対に、人々はすぐにイエスだと気がつきました。病める人々を広場に寝かせ、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるように願いました。それだけ人々は必死でした。彼らは病を自分たちでなんとかできる、とは決して考えなかった。時間が来れば自然にいやされる、とは決して思っていなかった。ただイエス・キリストだけがいやすことのできるお方なのだ、と信じていた。彼らの行動は、弟子たちから見たら、みことばよりも癒やしを求めている、不完全な信仰に見えたかも知れません。しかしそんな荒削りの信仰であっても、神はあわれんで恵みを与えてくださいました。「さわった人々はみな、いやされた」のです。 私たちもまた、彼らの信仰に学ぶべきでしょう。余計なプライドや遠慮は捨て去り、どんな困難であっても主の御名を呼び、イエス様を受け入れるとき、私たちは決して裏切られることはないのです。困難を解決するためだけに信じるのは御利益信仰です。しかし損得ではなく、ただ神の恵みに答えようと主を信じた者は、どんな困難の中にあっても失望することはありません。どうかひとり一人が、イエス様が素通りしてしまうような心ではなく、喜んで入ってくださるような砕かれた心をもって、今週も歩んでいきましょう。