みなさん、おはようございます。 私のスマホには、その日が何の記念日かを教えてくれるアプリが入っているのですが、今日9月29日は接着剤の日だそうです。なぜかおわかりでしょうか。きゅう、にい、きゅう、「くっつく」だそうです。数字の二をここだけなぜか「ツー」と英語読みさせているところなど、いささか無理矢理感が漂いますが、覚えておくとよいかもしれません。世に接着剤と名のつくものはたくさんありますが、教会から生まれた接着剤があります。商品名では「ポストイット」といいますが、日本では「ふせん」というほうがなじみがあるかも知れません。小さなメモ用紙の裏に、はがしやすい糊がついていて、つけたり、貼ったりが何度もできるので、私も説教の準備のために本を調べるときにはよく用います。 この付せんのどこが教会から生まれたのかというと、じつはこの付せん、もともとはアメリカの3Mという会社が、絶対にはがれない接着剤を作ろうという内部プロジェクトから始まったものでした。研究チームは数え切れない実験を重ねましたが、絶対にはがれない接着剤などそう簡単に作れるものではありません。研究所には、接着剤の失敗作が山積みとなりました。 しかし研究を始めてから5年後、ある転機が訪れました。研究チームのうちの一人が、あるキリスト教会の聖歌隊の一員だったのですが、毎日の激務で疲れていたのか、その日曜日にかぎって、歌集に挟んでいたしおりを特別讃美の最中に何度も下に落としてしまうというミスを犯しました。しかし何回目かに拾い上げたとき、ふっと思いついたそうです。あれ、あの失敗した接着剤をしおりの裏に塗れば、くっついたりはがしたり、聖歌隊にぴったりじゃないか、と。ところがそれが社長の目にとまり、絶対にはがれない接着剤より、つけたりはがしたりのほうが便利じゃないかという話になったそうです。やがてこれが日の目を見て、今では世界中に広がる大ヒット商品となりました。 つけたりはがしたりが自由自在の、いわば「ゆるい接着剤」が教会の聖歌隊から生まれたというこのエピソードは、教会そのものの本質を表しているようにも思います。上から命令されて、それに一方的に従うというのが教会ではありません。かといって、ひとりひとりがてんでばらばらで一向にかまわない、というわけでもない。みんながひとつのこころで神のみこころを行うのだけど、それは義務でも強制でもなく、喜びと感謝の中で行われていくという、ある意味、がっちりした結合ではなく、ゆるい結びつき、それが教会であります。 もちろん神と私たちの絆はがっちりしているのですが、だからといって兄弟姉妹お互いの関係もがっちりというわけではない。言われたからやらなければいけない、とかそういうことはないのです。極言すれば、礼拝出席も自由ですし、献金も自由です。伝道や交わりも自由です。教会の中には、これをやらない人は教会員の資格を取り上げます、というようなものは一つもありません。すべてが自由を原動力とし、すべてが恵みへの感謝が息づいている、それが私たちです。それこそきゅうにいきゅうみたいにこじつけに思えるかもしれませんが、まさにゆるい接着、だけど決して接着力を失わない、そういうものが教会であると言えます。 今日の聖書箇所は、初代教会で活躍したバルナバという人が登場する箇所を二つあげています。バルナバは十二弟子のひとりではありません。パウロやペテロのように手紙を書き残しているわけでもありません。言うならば、知名度においてはあまり振るわない人です。しかしもしこのバルナバがいなければ、教会の歴史は変わっていたことでしょう。 今日の聖書箇所の前半は、もともとは迫害者であったパウロがイエス・キリストに直接出会った後の話です。エルサレム教会は、それまでさんざんクリスチャンたちを捕まえて牢に投げ込んでいたパウロを信用できなかったと書かれています。それを仲立ちしたのが、バルナバだったのです。 また今日の聖書箇所の後半では、それから何年か経った後のパウロが、親友バルナバと一緒に二回目の伝道旅行へ出発しようとしたときのことが語られています。しかしパウロは、一回目の伝道旅行の途中で挫折して帰ってしまったマルコは連れて行くべきではないと考えました。このときのパウロはまだ若く、厳しい人であったようです。そこでもバルナバはマルコのためにとりなしをします。しかしパウロがそれを受け入れなかったため、結局彼らは別れて、別々のルートから伝道旅行に向かうことになりました。 マルコは伝道旅行の途中でドロップアウトしてしまった自分は伝道者として失格だとすでにしょげていたことでしょう。パウロに言われなくても、自分が伝道旅行にふさわしい者ではないことはよくわかっていたはずです。しかしそれでも彼を拾い上げてくれる人がいるならば、彼は自分の失敗に押しつぶされずにまたチャレンジができる、そのだれかこそが、バルナバでした。教会には、彼のような人が必要なのです。 誤解しないでいただきたいのですが、パウロのようにしっかりとした原則に立つ、ある意味強い人も教会には必要です。しかし同時に、強い人と弱い人を繋げる、ゆるい接着剤のような人も必要です。私たちの教会も、パウロのような人もいれば、バルナバのような人もおり、もしかしたらマルコのような人もいるかもしれません。それぞれが、イエス様のあわれみによってつなぎ合わせられているところ、それが教会なのです。 さらに言えば、それは豊栄キリスト教会という教会の中の話だけでなく、逆に他の教会との関係においてもそうなのです。日本全国に、プロテスタントの教会は約八千、新潟にはそのうち約90の教会があります。カトリックを入れれば、もっと多いでしょう。教派も違い、神学も異なります。私たちは礼拝の感謝祈祷で誰かが祈っている間、他の人も自由にアーメンと言えますが、ある教会ではそれはしないようにと指導されます。このような違いを挙げていけば、枚挙にいとまはありません。でも違っているからこそ、そこには神の恵みが満ちているのです。教会の一致とは、すべての教会がまったく同じになることではありません。本当の一致とは、それぞれが違ってていいのだと認め合うことです。あなたはあなた、わたしはわたし、でも明らかに違っている者たちが同じイエス・キリストにあって兄弟姉妹とされている。違っていることを認めながら、お互いが相手を自分よりもすぐれた者として敬っていく。そして自分の抱えている欠点や弱さを決して隠さない。隠さないから、向き合っていける。そのときに、自然と生まれてくるもの、それが一致です。 これは教会同士の関係だけでなく、教会員同士にも当てはまります。私たちの教会には、求道者も含めて、だれひとりお客様はおりません。それぞれにとって、ここは「私の教会」と言えるところです。だから自分にできることを探していきましょう。「何もできない」という人は、世の中に一人もいないのです。人の目には無力ではみ出し者であっても、神の目には決してそうではありません。その人にしかできないことがあり、神はその、その人にしかできないことも、あらかじめ備えてくださっています。どうか、ひとり一人がそれを見つけていく一週間でありますように。