こんばんは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日の新潟ニュースで、
「1000万円超の過大支給が判明 新潟市の会計年度任用職員の報酬 日割り支給を事務処理誤り97人に全額支給」と、まるで鬼の首を取ったようなタイトルで報道されていました。ヤホーのコメント欄では相変わらず手厳しい批判が飛び交っていましたが、そんなもん、本人たちがすぐに気づいて発表したんだから、そこまで責めなくてもいいのに、というのが私の感想です。
なぜそこまで寛容であるかというと、今から29年前、同じことがあったから。
忘れもしない、新潟市役所に入社した最初の年の夏のボーナスが支給された日のことでした。庶務のサクマさんから、ボーナスの明細帳票が入った袋をいただき、同じ高齢者福祉課で唯一の同期であったエノモトくんと「どうだった?」「どうだった?」と確認し合いました。同期ですから、ボーナスの金額は同じはず。ところが何と私のボーナスの金額がエノモトくんの二倍もあったのです。落ち込むエノモトくん。
「まあ、人の二倍、努力してきたから。今までも、これからも。」と私は答えましたが、納得のいかない彼は隣の障害福祉課に行って、そこのやはり同期の子の給与明細も確認して、「やっぱりおかしい!」と言い出しました。そこでサクマさんに調べてもらうと、じつは新卒者のボーナスは本来0.5を乗じる計算なのですが、どうやら会計課のほうで私だけ、まるまる1.0倍で出してきたそうです。
一応、一件落着。「みじけえ夢だったなあ・・・」(ナウシカのクロトワ風に)とポツンとつぶやいた私に、翌日、新潟市長ハセガワヨシアキの名前で一枚の書類が届きました。タイトルには
「返納命令書」という大きな文字が。
いや、まちがえたの、そっちだし。命令って何?
今だったらこっちが慰謝料を要求するご時世ですが、市長が大好きでこの職場に入ったので、喜んで返納させていただきました。ええ、喜んで。・・・・・
かのエノモトくんも、今では課長級のエースとしてがんばっているそうです。一度くらい教会に来なさいよ。
聖書箇所 『マルコの福音書』5章21-24、35-43節
21イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、23こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」24そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
35イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」36イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」37イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。38彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、39中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。41そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。42すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。43イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。
2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。今日の聖書箇所は、25節から34節のあいだが省略されていますが、ここが先週語った、長血の女性のいやしの物語となります。今日はその前後にある、この会堂司ヤイロの娘のよみがえりについて一緒にみことばをかみしめていきましょう。ヤイロの娘のよみがえりと言いましたが、娘本人についてはほとんど語られず、物語はむしろその父親ヤイロの姿を克明に描いています。まず22節をご覧ください。「すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください」。
ヤイロについて、彼は会堂司の一人であったと書かれています。聞き慣れない言葉ですが、会堂司について説明します。当時のユダヤでは、至る所にユダヤ教の会堂があり、人々はそこで礼拝を行っていました。会堂司は、中央のユダヤ教当局から、各地の会堂の管理を委ねられた者です。とはいえ、単に会堂の戸締まりや掃除をする人ではありません。当時の礼拝は、いわゆる説教者がおらず、参加者がその場で巻物を朗読したり、勧めをしたりする、いわば超自主的な礼拝だったのですが、そこで問題のある人物が勧めをしたり、礼拝の進行を牛耳ったりしないように管理する人々、それが会堂司でした。ですから、説教などはしませんが、今日の牧師に近い立場であると言えるでしょう。
すでにこの時、中央のユダヤ教指導者たち、聖書ではパリサイ人とか律法学者と呼ばれる人々は、イエス・キリストを危険人物とみなし、どうやって葬ろうかと計画を練っていました。各地の会堂司たちも、パリサイ人たちの考えに従い、イエスとその弟子たちと距離を置き、会堂から締め出すことになっていました。
しかしその中で、ヤイロの心は揺れていました。立場としては、彼は会堂司の一人としてイエスを敵としなければなりません。しかし今、12歳になる自分の娘が死にかけています。そしてこのイエスだけが、その娘をいやすことができる、たとえどれだけパリサイ人から憎まれようと、その力は本物だと、ヤイロは信じていました。ヤイロの心は、会堂司としての自分と、一人の娘の父親としての自分とのあいだで、振り子のように揺れ動いていました。しかしヤイロは苦しみ悩んだあげく、周りの人々が驚くような行動に出ました。会堂司でありながら、イエスの足もとにひれ伏したのです。そして地面に額をこすりつけ、こう願いました。どうかおいでになって、娘の上に手を置いてください、と。
ヤイロ。それは会堂司としての地位を失うことになっても、娘を助けることを決心した一人の父親の名前です。ヤイロ。それは娘を助けるためであれば、地位もプライドも捨てることもかまわないと腹をくくった男の名前です。ヤイロ。それは私たちに、救いを得るためには何を捨てなければならないかを教えている名前です。「信じるだけで救われる」というキリスト教についてのキャッチフレーズは真実ですが、誤解も生んでいる言葉です。「信じるだけで」とありますが、その「信じる」ということひとつに、私たちは自分の人生の中で積み重ねてきたものもすべて引き換えにするほどに、この「信じる」という一事にしがみつくとき、その人は約束のものを手に入れることができるのです。聖書はヤイロという名前を通して、私たちにこう問いかけます。あなたはそこまでして、イエスにしがみついているか、と。
今日の聖書箇所は、35節から後半部分になりますが、そこで不思議に感じることがあります。それは、このヤイロという名前が後半部分ではまったく出てこないことです。代わりに彼は「会堂司」とだけ、ひたすら語られます。たとえば35節、「会堂司の家から人々が来て言った」。36節、「イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた」。38節、「彼らは会堂司の家に着いた」。前半部では繰り返し出てきたヤイロという名前を、まるでわざと出すのをやめたように感じるほど、不自然な筆運びとなっています。
しかしじつはここに一つのメッセージが込められています。娘のためにあらゆるものを犠牲にしようとしたヤイロですが、例の長血の女とのやりとりが起きた中で、彼が一番聞きたくなかった知らせが届きました。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか」。「先生」とはイエス様のことですが、むしろこの言葉はこういう意味です。娘は亡くなりました。あなたがこれ以上、会堂司の地位を失いかねないほどに、このイエスに関わって煩わされるべきではありませんよ。ヤイロとイエスをつないでいた一本の絆は、娘の死によってブチブチと切れていきました。娘が死んでしまった以上、何を求めることができるのか。ヤイロも家の者たちも、イエスが病をいやすことはできても命をよみがえらせることができるとまでは信じていません。先ほどまで熱く燃えていたヤイロの心は娘の死の知らせを境に冷え始めました。イエスのためにすべてを捨てようとした男ヤイロから、イエスを危険人物とみなして会堂から閉めだす会堂司に戻ろうとしていました。ヤイロという名前がこれ以降消えてしまうのは、彼の心の中の葛藤を表しています。
彼は娘の死という絶望の中で、神にしがみついていた手を離そうとしていました。しかし救いは人間の努力ではありません。救われるためには、信じることが必要であり、信じることは幾多の乗り越えなければならない犠牲も必要とします。しかしそれは私たちの努力によるのではありません。ヤイロがイエス様の衣をつかんでいた手を離そうとしたとき、イエス様のほうがその手をつかみ、決して離そうとはしませんでした。主は会堂司にこう言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい」。その声は、絶望のただ中にあった会堂司の声に届いたのでしょうか。聖書はこの呼びかけに対する会堂司、つまりヤイロの反応を記していません。しかしただ事実だけを語っています。それは、イエスが会堂司の家に着いたとき、ヤイロは奇跡をまのあたりにしたということです。40節で、聖書は彼のことをヤイロとも会堂司とも呼んでいません。「子どもの父」と呼んでいます。子どものためにすべてを犠牲にしようとしたヤイロ。子どもの死を聞き、イエスにしがみついていた手を離そうとした会堂司。そのような信仰の葛藤の戦いを経て、最後に彼が目にしたものは、イエスを信じる者は、決して失望させられることがないという事実でした。一人の子どもの父として、愛するこどもが死からいのちへとよみがえった姿を、彼は妻と共に目撃しました。信じ続ける者には、確かに報いが約束されているのです。
私たちはどんなに絶望的な状況の中でも、神の約束を忘れないで歩んでいきましょう。「恐れないで、ただ信じていなさい」という言葉は、今の私たちにも確かに語られています。すでに私たちの人生はイエスによって買い取られました。それは、私たちの人生の先に何が待ち受けようとも、神がその最終責任をとってくださるということです。ですから恐れないで、信じ続けましょう。イエス・キリストが私の救い主であり、私の人生を勝利へと導いてくださることを。