聖書箇所 『イザヤ書』48章10節 10見よ。わたしはあなたを錬ったが、銀のようにではない。わたしは苦しみの炉であなたを試した。昔、教会には通っていたけれどまだ信じていなかった頃、ある牧師先生から聖書の学びをいただいたことがありました。「イエス・キリストを信じた者は、罪が許されて、永遠のいのちを受け取ります」というテキストを読んでいたときに、その先生が言われました。「永遠のいのちってわかりますか」。まあなんとなく、と答えたところ、「いや、絶対わかるわけない」と、逆にこちらが驚くような返事がありました。「だって、永遠なんて誰一人経験したことがないんだから、理解も想像もできるわけないでしょ」。なるほどなあ、と思いましたが、誤解を防ぐために申しますと、この先生が言いたかったことは、永遠を理解するのは、頭や体験ではなくて、ただ信仰によるということです。そして私たちが信仰によってイエス・キリストを受け入れるときに、永遠のいのちは、実際の体験となって、私たちの中で現実のものとなるのです。 しかし、信仰によって永遠を常に経験しているはずのクリスチャンでさえ、毎日の忙しい生活の中で、目先の時間にとらわれてしまうことがあります。もう二十年以上前に聞いた話ですが、インドネシアで長いあいだ働いている宣教師が、日本に一時帰国して、全国の教会を巡回していました。ある大都市にある教会で奉仕したときのこと、駅に出迎えにきてくれた牧師がこう言ったそうです。「先生、JRではなくて地下鉄で行きましょう。乗り換えがうまくいけば、10分は短縮できます」。当時その宣教師が働いていたインドネシアでは、都市部であっても、時間通りバスが来ることなどなく、二、三十分遅れることも当たり前でした。「10分くらい待ちますよ」と言ったそうですが、「いえ、日本ではその10分が大事なのです」と返されたそうです。そして翌日、礼拝メッセージの前に、その先生はこう言われました。「先生、メッセージは20分以内でお願いします。伸びたとしても10分までで」。皮肉にも、その日の説教のタイトルは「永遠のいのち」でした。永遠のいのちを語るのに、10分を気にしなければならないことに、宣教師は思わず苦笑したとのことです。 すでに永遠を与えられているはずのクリスチャンが、教会の中でも、5分、10分の節約のためにせわしなく動き回り、かえって平安を失っているということはないでしょうか。そして時間を気にしすぎると、私たちはさらに大きなものを見失っていきます。それは、生活の中で起こる、さまざまな出来事について、それが永遠の神のご計画の中ですべてが組み合わされていることを忘れてしまうということです。例えば、ある困難が起きたとき、一日経っても変わらない、一週間経っても好転しない、一ヶ月経っても解決しない、という風に、時間という制約の中で、幸か不幸かを判断する。でも神の計画は、そんなに単純ではないし、即効性の薬のようなものではありません。一つの出来事がいったい神の計画の中でどのような意味があるのか、それがわかるまでには気が遠くなるような時間がかかることもある。それでもなお、私たちは、神が与えてくださるものはすべてがよいという約束を信じます。永遠のいのちを与えられた者にふさわしく、永遠という枠の中で、いま、自分に起きていることを見つめ直します。そのとき、永遠に比べたらごく短い時間の中で、これはプラス、これはマイナス、と勝手に判断している、自分の過ちに気づくことでしょう。 今日の聖書箇所は、極めて短いものですが、神が私たちに与える試練さえもプラスであることを教えてくれます。「見よ。わたしはあなたを錬ったが、銀のようにではない。わたしは苦しみの炉であなたを試した。」 鉱山から掘り出したばかりの銀は、不純物がたくさんこびりついていて、それらを一つ一つ取り除いていたのでは、コストがかかりすぎます。そこで、古来より、面白い方法が使われていました。高温に熱した炉の中に、銀の鉱石を入れて、さらに鉛のような不純物も投げ込むのです。そうして熱していくと、銀にこびりついていた不純物が、新しく投げこんだ鉛のほうと結合して、蒸発していきます。そして最終的には、純粋な銀だけが残るのです。つまり、無数の小さな不純物を取り除くために、あえてもっと大きな不純物を炉に投げ込むのです。それは一見、とんでもない回り道に見えます。純化するのではなく、より不純なものにするのですから。しかしその回り道が、銀を精錬するためにはどうしても必要なことでした。 「わたしはあなたを熱したが、銀のようにではない」という言葉の意味は、鉛のような不純物の代わりに、苦しみという一見マイナスに見えるものをあなたの人生に投げ込んで、あなたを純粋な金銀のように整えるということです。「どうしてこんなに苦しまなければならないのか」と私たちが考えるとき、そこには神が永遠の計画の中で、私たちを純化しようとしているのだということを信じなければなりません。神は、私たちを金や銀よりも尊いものとして見ておられます。銀が鉛のような不純物で精錬されるのであれば、私たちはなおのこと、もっと不純で、汚く思えるものを突然、自分の生活に投げ込まれて、そこで苦しむことになります。しかしそれが私たちを純化するために必要なことなのです。 私たちが生きるとき、問題のない人生など、あり得ません。それは信仰を持っていても、持っていなくても同じです。しかしクリスチャンには、問題の本質を見抜くことができる目を、みことばによって与えられていることは感謝です。私たちは、四方八方から追い詰められたとき、「どうやってここから抜け出すのか」と考えるよりも、これが神から与えられたものであり、必ず脱出の道が備えられていることを忘れないでいきたいと思います。私の生活、性格の中に含まれている不純物を取り除くために、神が私を苦しみの炉の中に投げ入れたとすれば、解決の道は、炉が十分に熱せられることを待つことです。苦しみの炉の中で、そこから逃げ出すことを考えるのではなく、神が私をどのような者へと精錬してくださるのかを期待し、生きていくこと。私たちと共に永遠に生きてくださるイエス様がおられることをかみしめながら。 こんな私のために、こんな私の身代わりとして十字架に着いてくださった方、イエス様がおられます。私が苦しい時、不安な時、悲しみの時、いつも私と共に苦しみ、悩み、悲しんでくださる方。イエス様は、私たちが受けるべき罪のさばきをすべて引き受けてくださいました。だから私たちは何も恐れなくてもよい。この方にすべてをゆだねることができるのです。永遠のいのちが与えられている恵みをもう一度かみしめながら、歩んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会