聖書箇所 『マルコの福音書』4章33-41節 33イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。34たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた。 35さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。36そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。37すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。38ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。39イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。40イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」41彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」阿賀野市と新発田市のあいだに、焼山という山があります。教会員の中には、地元の方もいるかもしれません。私は登ったこともありませんが、焼山という名前の割には、静かで緑豊かな山だそうです。しかし新潟県のずっと南の妙高市に、同じ名前の山、正しくは新潟焼山という山がありまして、こちらのほうはまさに今も焼けている山です。今からちょうど50年前の1974年7月28日の未明、突然噴火を起こし、山にいた大学生3人が犠牲になったという記録が残っています。新潟焼山という名のとおり、その後も常に小規模な火山活動を行っており、気象庁が地震計やカメラを設置して常に監視しているのですが、山頂付近は常に雲がかかっていて、カメラもあまり役に立たないということでした。ですから地元の人は、いつ何が起こってもすぐに避難できるように、警戒を怠らないそうです。 これは火山の話ですが、今日の聖書の舞台である、イスラエルにあるガリラヤ湖も、熟練の漁師たちでさえ予測できないような、突然の嵐が起こることがありました。嵐が来ることを知っておられたのかどうかはわかりませんが、イエス様は夕方になって、弟子たちを強いて船に乗り込ませました。35節をご覧ください。「さて、その日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた」。 「その日」という言葉を、どうか忘れないでください。その日、何があったかはその直前、33節から34節に記されています。「イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた」。 その日、イエス様は多くのたとえ話を群衆に話されました。しかし弟子たちにだけは、そのたとえ話の中に隠されている霊的な真理を解き明かされたとあります。私が子どもの頃、洗剤のコマーシャルに、「その日の汚れ、その日のうちに」という言葉が早口で流れるというのがありました。学校の先生も悪乗りして、「その日の宿題、その日のうちに」とか言って、教室が盛り上がったこともありました。イエス様もそうだったのです。群衆にはたとえを用いて語った教えが、弟子たちの中でしっかりと吸収されているかどうかを、その日のうちに、嵐の中で、実際に試されました。それが「向こう岸へ渡ろう」の意味です。 先ほどの洗剤のキャッチコピー、「その日の汚れ、その日のうちに」は、今流れているCMでは使われていないようです。代わりに、年末になると、「今年の汚れ、今年のうちに」という、だいぶハードルが下げられたキャッチコピーが流れています。しかしみことばは、時間が経ってしまうと、忘れてしまいます。あるクリスチャンの家庭では、日曜日の夕方には、どんなに忙しくても、家庭礼拝の中でその日の礼拝のメッセージを分かち合うと聞きました。たいへん良い習慣だと思います。もうあたりが暗くなり、危険さえ伴う夕方になって、イエス様があえて弟子たちを船に乗り込ませた理由、それはその日のことをその日のうちに学ばせるためでありました。晴天の下で聞いたみことばは、そのままではただの知識や教訓に終わります。しかし闇と嵐の中で、そのみことばが実際に試され、体験させられるときに、それは決して忘れられることのない、生きた筋肉に形を変えていきます。死を覚悟するような激しい嵐の中で、彼らはイエス・キリストのみことばにしがみつくのか。それともみことば以外のものに頼るのか。それを私たちは、自分自身にも当てはめながら、この弟子たちの姿から学んでいるのです。 信仰は、心で信じるものです。しかし心で信じた信仰は、実際の経験を通して試されなければなりません。科学者が一つの理論を、数千、数万回の実験を通して確認するように、神さまは、私たちの信仰が形だけのものになっていないか、実際の試練を通して確認されるのです。アブラハム、イサク、ヤコブといった族長たち、ヨブやダビデといった人々、あるいは炎のかまどへ投げ込まれたシャデラク、メシャク、アベデネゴ。神からの試練によって信仰が試された人々の例を、私たちは数え切れないほど知っています。そして神が愛する者をそのような方法で成長させられるということも知っています。ならば、私たちがその例外となるはずがありません。私たちの平穏な生活に突然起こる苦しみも、夕焼けのガリラヤ湖に突然起こった嵐も、同じく神が与えたもうた試練です。その試練の中であなたは何と叫ぶのか。「主よ、助けてください」とイエス・キリストにしがみつくのか、それとも「私が滅んでも何とも思わないのですか」と恨めしさを口にするのか。この時の弟子たちの姿は、私たちを映し出す鏡となるでしょう。そこに映っている姿は、信仰者として決してほめられたものではありません。しかしそれがこうして聖書の中に書き残されているのは、私たちが同じ失敗の中にとどまることがないようにするためです。 弟子たちは嵐の中で、いくつかのことを見失いました。まずひとつは、イエス様が与えてくださった約束の言葉を見失いました。イエス様は、彼らを湖に連れ出すときに、何と言われたでしょうか。「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われたのです。それは、わたしが一緒なら、途中に何が起ころうともあなたがたは必ずたどり着くことができるという確かな約束でした。私たちが試練の中で主を見失ってしまうとき、まず最初に陥るのはみことばの約束を忘れてしまうということです。私は何があってもあなたを見捨てない、と、神は聖書を通して約束してくださっています。忙しさの中でみことばを忘れることがあるでしょう。あるいは不安や恐れの中で、つい神の約束から目を離してしまうこともあるかもしれません。主の約束を見失わないために、私たちは朝起きたらまずみことばをいただき、夜休む前には、いただいたみことばが、その日の暮らしの中でどのように実現したかを振り返る時を大事にしていきたいものです。 さらに弟子たちは、主がどのようなお方かということも見失いました。船の中にイエスがおられることは忘れていなくても、このお方がどれほどまでに自分たちを愛しておられるのかを忘れてしまっていたのです。彼らはイエスのからだを揺り動かして、こう言います。「先生、私たちが死んでもかまわないのですか」。そんなことがあるわけないのに。このときの状況を頭の中で想像してみてください。イエス様はどのような表情で眠っておられたでしょうか。揺れる小舟は神のゆりかご、空から聞こえる轟音は神の子守歌、イエス様にとってはそうなのです。どんな嵐、どんな試練の中でも、私たちには平和が満ちていることを教えてくださっています。 イエス様は天地の主です。あなたを決して見捨てないと約束しておられるお方です。そして、あなたを決してどうでもいいなどとは思っておらず、常にあなたの人生に関心をもって、平安を与えてくださるお方です。どんな試練の中でも、この方を見失わないようにしましょう。この一週間も、イエス・キリストから目を離さずに歩んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会