聖書箇所 『ヤコブの手紙』3章1-12節 1私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。2私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。3馬を御するためには、その口にくつわをはめれば、馬のからだ全体を思いどおりに動かすことができます。4また船を見なさい。あのように大きくて、強風を受けていても、ごく小さい舵によって、舵を取る人の思いどおりのところへ導かれます。5同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。6舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。7どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。8しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。9私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。10同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。11泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。12私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。ある女性が、子どもが大きくなり手がかからなくなったので、近所のスーパーでパートに勤めることになりました。働く初日、顔合わせの時に自己紹介があったのですが、つい魔が差して、本当は35歳なんだけど30歳と言ってしまったそうです。それ以降、いつも緊張が抜けない日々が始まってしまいました。休憩時間などで、干支の話題が出れば、5年のずれがばれないように頭の中でさっと計算しなければなりません。中学校の頃に見ていたテレビ番組の話をすれば小学生なのにそんなの見てたのと言われます。いまの夫と結婚した年、年齢差、子どもが生まれた年、あらゆることを頭の中でさささと計算して、話にぼろが出ないように気をつけなければなりません。結局、最後には白状して終わりになったのですが、うそをつき続けた数ヶ月を振り返ってみたとき、「女の人って、なんでいつも年齢に関係のある話ばかりするんだろう」と思ったそうです。 今日の聖書箇所で、ヤコブは、ことばや舌について警告を発しています。しかしただ単純に、「クリスチャンなんだから嘘をついてはだめだよ」と言っているのではありません。むしろ「ことばで過ちを犯さない人がいたら、それは完全な人だ」という表現を通して、イエス様以外に、ことばで過ちを起こさない人などはいない、ということを語っています。だから、多くの者が教師になってはならない、とも言っています。それは教師がことばで人を教える人だからです。そしてどんな教師でも、ことばで失敗しない人はいません。ことばで失敗したとき、それを取り消すことはできません。しかしもしその教師が、信徒と信頼関係を築くことができていれば、一つの言葉の失敗で、すべてががたついてしまうという最悪の事態は防ぐことができるかと思います。だからといって何を語ってもいいということではありませんし、肝心の、その信頼関係の構築というのは、時間をかけて、また寛容や誠実といった、あらゆる御霊の実が注ぎ込まれて、ようやく培われていくものです。だから多くの者が教師になってはならない、と言われているのでしょう。 しかしことばに生きる教師であるからこそ厳しいさばきがあるとわかっていても、それでも私は、一人一人が教師という仕事の大切さ、すばらしさをおぼえていただきたいと願います。今から約170年ほど前、アメリカはボストンの教会に、エドワード・キムボールという信徒がいました。彼の名前をインターネットで検索しても、ほとんど出てきません。しかしこの名前と、ドワイト・ムーディーという名前を合わせて検索すると、ようやく一件だけ、ヒットします。ご存じの方もいるかもしれませんが、ドワイト・ムーディーとは、19世紀にアメリカで霊的リバイバルが起きたときに、その中心にいた大伝道者です。大伝道者というとビリー・グラハムが有名ですが、彼もこのムーディがいなければ、生まれなかっただろうと言われるほど、ムーディはアメリカの教会、いや世界の歴史そのものを変えた人でした。では、最初に出した、そのエドワード・キムボールという信徒は彼とどういう関係があるのか。彼は、ムーディが通っていた教会学校の、教師でした。当時のムーディーは、靴屋で住み込みで働いていましたが、福音には無関心であり、とても後に大伝道者になるとは思えないような人でした。しかしこのキムボールは忍耐強く、ムーディーに聖書を教え、彼のために祈り、関わり続けました。その結果、やがてムーディは信仰決心に至り、後には伝道者として歩むのです。いまはインターネットでさえ、このキムボールの名前は埋もれてしまい、出てきません。しかしどんなに無名な人物であろうとも、彼がいなければ私たちに福音が届くこともなかったでしょう。だれもが教師になるべきではありません。しかしだれもが教師を目指してほしい。なる、ならないは神が定められているものであるとしても、そして牧師、宣教師ではなく、教会学校の教師というものであったとしても、その働きは決して小さなものではありません。 私たちはことばで失敗しやすいものです。しかしその失敗をできるだけ避ける方法はあります。それは心に、神との平和を持つということです。人は、自分以外の人間が、自分がしてほしいように動いてくれないときにいらだちます。夫にも子育てにも協力してほしいのに上げ膳据え膳で動いてくれないから妻はいらだつ。部下がいちいち指図しなくても、自分で判断して行動してほしいのにそれがないから上司はいらだつ。ひとつのことばの失敗の下には、十個の怒りがあり、さらにその下には百個の、あの人は私のためにこう動いてくれるべきなのだという要求があります。ではそれを断ち切るためには、人には一切何も期待しない、求めない。・・・・そんな仙人みたいなことができる人はいません。人に何かを求めるのは私たちの性であるとしても、人と人とを結ぶところに、神との平和を置くこと。それは具体的には、いつもみことばによって始める、みことばを心にとどめ続けておく。人に求め、人に怒り、言葉を爆発させる前に、みことばを自分の目の前に置いて、歩んでいくということ。それが、私たちが舌をコントロールし、のろいではなく祝福の言葉が人に向けられていくための道です。 ヤコブは、馬とくつわ、船とかじ、森を燃やす炎とちいさな火などをたとえに用いて、私たちにことばの力を教えています。「火から炎へ災いへ」という消防署の啓発スローガンがありましたが、まさにことばは小さな火が炎となり、災いを生んでいくほどの力を持っています。しかしそれはことばそのものが悪ではなく、方向性が間違っているときにそうなります。もしことばがよい方向へと用いられていくならば、どんなに小さな言葉も世界を変え、どんなにささやかな慰めのことばも、死せるたましいを生き返らせることができます。実にそのために私たちクリスチャンはみことばによって救われ、みことばを与えられているのです。ヤコブはこのように語ります。9節、「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません」。 そうです、そのようなことがあってはなりません。やってはいけない、という意味ではなく、両者の共存はありえないのです。「甘い水と苦い水」。これは、真水と塩水のことですが、真水と塩水を同時に噴出させる泉は存在できません。私たちは、みことばそのものであるイエス・キリストをいつも心の真ん中に置きましょう。あなたの心の中におられるイエス様は笑っておられますか、泣いておられますか。喜んでおられますか、悲しんでおられますか。私たちのことばが人を傷つけてしまうとき、あるいは誰かの言葉が私たちを傷つけたとき、イエス様もまた涙を流され、悲しまれるのでしょう。でも私たちのことばが逆に人々にとって祝福であり、恵みの言葉となるように、イエス様は内側からいつも力を与えてくださいます。みことばをいつも心にとどめながら、私たちもことばを語るものでありたいと願います。これからの一週間も、守られますように。2017 新日本聖書刊行会