聖書箇所 『ヤコブの手紙』2章14-26節 14私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。15兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、16あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。17同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。18しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。19あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。20ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。21私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。22あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。23「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。24人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。25同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。26からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。今年の4月に亡くなられた、星野富弘さんの「花の詩画展」が、10月から豊栄公民館で行われるそうです。よく知られているとおり、星野さんは中学校で体育の指導中に大けがをして、首から下が動かなくなりました。その後口に筆をくわえて花の絵を描くようになりますが、それまでの約二年のあいだは、いつも死ぬことばかりを考えていたと言います。じつは私が学んでいた神学校で旧約学を教えてくださっていた先生が、星野さんを足繁く訪問していた牧師の友人であり、当時の様子を授業で語ってくれたことがありました。 病院で寝たきりになった星野さんをその牧師は訪問し、慰めますが、最初、あんたに何がわかるという感じで、冷淡な対応だったそうです。しかしその牧師は、何度も病院に通い、何かしてほしいことはないかと星野さんに尋ねました。するとある日、彼が天井を見上げながら、たった一言、「ラーメンが食べたい」と言ったそうです。それは本当に食べたかったのかどうかわかりません。病院にラーメン持ってこられるか、寝たきりのおれに食べさせることができるか、という思いだったのかもしれません。 ちなみに星野さんが大けがをしたのが昭和45年、日本で最初のカップラーメンが発売されたのがその翌年、昭和46年です。今のようにお湯を注げば簡単に食べられるラーメンはまだ普及していない時代でした。しかしどうやったかはわかりませんが、この牧師は星野さんのもとに温かいラーメンを持ってきたそうです。いい話ですね。これで彼の態度が変わったかというとそうでもなく、その後も色々めんどくさいことを持ち出して、この先生を困らせたということでした。しかし少しずつ星野さんの心は開かれ、大けがをしてから約4年後、病院で洗礼を受けたそうです。星野さんも、障害を乗り越えて、偉いなあと思いますが、この先生も偉いなあと思います。まさにこの牧師の姿は、信仰と行いが手を結んで、生きていたと言えるのではないでしょうか。 ヤコブは、たとえ信仰があると言っても、その人に行いがないなら、むなしいものだと言います。確かに私たちは、行いによって救われるわけではありません。しかし信仰によって救われた者には、必ず行いへと導かれていくのです。ここでいう行いとは、あれをやってはいけない、これをやってはいけない、という生活の束縛ではありません。自分がしてほしいように、他の人にもしてあげたい、という愛からにじみ出る行いです。 「私たちにはその行いがあるでしょうか」。私はそのように尋ねることはいたしません。救われた者には、必ずその行いが伴うからです。しかし一言で行いと言っても、できることもあれば、できないこともあります。だれもが、星野さんのようにはなれないし、この牧師先生とまったく同じことをする必要はありません。しかし、イエス・キリストが私のためにいのちを捨ててくださったのだ、ということを私たちが信仰によって信じたとき、神様は一人一人に、その人にしかできない行いを備えてくださったのです。 その人にしかできない、と言った言葉の意味は、能力ではなくて、その人が置かれている環境や立場のことです。あなたの家族に対して、最も有効な証しができるのはあなたです。あなたのことを知っている人々のあいだで、あなたのなす、どんな小さな行いも、それは神のわざを伝えるものとして用いられていきます。ですから私たちは、行いと信仰という二つの関係を考えるとき、私には行いが伴っていないというあきらめや失望を持ってはなりません。どんなに小さな行いさえも、神は私たちを今ある場所に置いてくださることを通して、ご自分の栄光を表すために用いてくださるのです。 パウロは、「人はイエスを信じる信仰によって、義と認められるのです。行いによるのではありません」と、ローマ人への手紙に書き送りました。しかし24節でヤコブはこう語っています。「人は行いによって義と認められるのです」と。これは矛盾でしょうか。いいえ、ヤコブが伝えたかったのは、信仰ではなく行いによって、人は義と認められるということではありません。信仰によって義と認められた人の生き方は、必ず行いという実を結ぶ、ということだったのです。 この真理を伝えるために、ヤコブは旧約聖書の出来事を紹介しています。アブラハムは、イサクをささげる三十年以上前に、信仰によって救われました。しかしその後のアブラハムは、決して信仰一筋というわけではなく、たびたび、神の御名を汚すような行いをしてしまいました。ある時には異教徒の王から「あなたは何ということをしたのか」と批判され、ある時には彼の行いが原因で家族が離ればなれになりました。しかしそのような中でも、神は彼の信仰を少しずつ成長させてくださり、その信仰は、自分の息子イサクを、神のためにささげるという、ひとつの行いによって完成されたのです。 クリスチャンとして歩んでいる中で、自分の信仰には行いが伴っていない、と考えて自分を責める人もいるかもしれません。しかし聖書は、私たちを責めるためではなく、励ますために書かれました。あれができない、これをしていない、という小さなことが信仰生活の中にあっても、いつか必ず私たちは、自分の信仰が本物であることを示す一つの機会が訪れます。そのとき、私たちがどう行動するかによって、信仰が公に表されます。アブラハムにとって、それがイサクをささげる時でした。カナン人であったラハブにとっても同様です。同胞であるカナン人が敵視しているイスラエルの使者たちを、自分の命をかけて守り抜いたとき、彼女の信仰は確かな行いとして、実を結びました。 最後に、星野さんの話をもう一つ紹介します。じつは星野さんは、大けがをする前、大学生の時に、すでに教会と関わりがあったそうです。大学生時代、彼が体操を指導していた高校の体操部が、夏になると地元の教会を合宿場所として利用していました。教会は会堂を貸し出す代わりに、部員たちが礼拝に出席するという条件を出していたそうです。ずっと後になって、星野さんは、教会の裏に立っていた墓にみことばが刻まれており、その言葉の意味を当時、考えたことがあった、と回想しています。 その墓は、生まれてすぐに亡くなってしまった赤ちゃんのために、両親が建てた墓でした。そして刻まれていたみことばはマタイ11章28節、すべて疲れた人、重荷を負っている人は私の所に来なさい、私があなたがたを休ませてあげます、でした。この墓については、子どもを生まれてすぐに亡くした親たちが、当時の牧師に「なぜ自分たちの子どもを、神はこんなに早く天に召したのか」と聞いたとき、牧師は「わかりません」と答えることしかできなかったということです。しかしその墓に刻まれたみことばが、大学生時代の星野さんの記憶に残りました。そして彼が大けがをして人生の意味を見失ったときも、そのみことばは彼の心の奥底でともしびとなりました。そして彼が残した詩画の数々は、今までもこれからも、多くの人々を慰め、励ましていくことでしょう。 そう考えると、その赤ちゃんの死も、星野さんをはじめとして、あらゆる人の救いにつながっていたと言えるでしょう。私たちが信じている神のみわざは、何と奥深いことでしょうか。そしてこの神が、私たちを通して行わせようとしている計画は、何と期待に満ちていることでしょうか。一人一人、与えられた信仰と、そこから生まれる、行いという義の実を見つめながら、この一週間を歩んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会