みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日、新会堂の基本設計案が臨時教会総会にて承認されました。今月中に献金お願いチラシを作って、主に同盟教団を中心に、全国の諸教会に発送します。設計士の方から完成予想図をいただいたので、許可をいただいてチラシの表紙に入れようと思ったのですが、諸般の事情により、画像を絵画風に加工することにしました。それができるソフトをネットで検索したところ、Cyberlink社の
PhotoDirectorを推す声が多くあり、ちょうどセール期間だったのでサブスクリプション契約で購入してみました。
しかし「絵画調」ボタンを色々試してみたものの、納得できる仕上がりにはほど遠く、あきらめました。
せっかくウン千円も払ったのに、どうしよう、返金申請しようか、とパソコンの前でしばし脱力していると、なんでしょう、「AIアニメ化」というボタンがあります。どうやら、最近はやりのAIで、画像を大胆に調整できるようです。しかしブログで結果を報告するためには、元絵をさらさなければならず、どっかから持ってきた画像だと著作権にひっかかる可能性があります。かといって私と妻のツーショットの写真をさらしてAIで美男美女化するのも何だかなと考えていたら、そうだ、オリジナル画像があったじゃないかということに気づきました。
そうです、先週皆さんの前に披露したニャスモです。100%、近伸之のオリジナル作品なので、誰にも後ろ指さされません。

とりあえず、「サクラ」と書いてあるボタンを押してみます。棒グラフのようなものが出てきて、数秒待つように言われました。
そして棒グラフが伸びきって、100%になったとき、驚くべきものができあがりました。

ま、まじか・・・・サメの帽子がおかっぱ頭になっとる。よく見ると右下にあった文字の断片も、赤座布団とおまんじゅうみたいなものに。
AI、自由すぎるぜ。こうなると他にも試してみたいのが人情というもの。次は「クール」と書いてあるボタンを試してみました。

今度はサメの帽子がそのまま生かされて、良い感じです。しかし福音派の牧師のブログなのに、ボインちゃんになってしまいました。
最後に、「サイバーパンク」を試してみます。

・・・・AIとは、げにおそろしきかな。肝心の教会堂の完成予想図を加工するという目的はどこかへ行ってしまいました。
長くなりすぎたので、今日はこのへんで。
聖書箇所 『コリント人への手紙 第一』12章12-26節
12ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。13私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。14実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。15たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。16たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。17もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。18しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。19もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。20しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。21目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。22それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。23また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、24格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。25それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。26一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
2017 新日本聖書刊行会
みなさん、おはようございます。
私の母校である敬和学園高校は、約30年前当時、演劇部がありませんでした。毎年、フェスティバルという全校行事があって、そこでは1年生から3年生までの混合チームで演劇の発表会がありますので、上手な人はたくさんいましたが、そのフェスティバルで燃え尽きてしまうので、一年を通しての部活としての演劇部はなかったのです。そこで私と何人かの仲間で、演劇部、最初は部ですらなく、愛好会と呼んでいましたが、そのようなものを立ち上げることになりました。学生時代にサークルの部長を経験した人もおられるかもしれませんが、部活動の運営というのは、まるで牧会のようです。メンバーを奮い立たせたり、落ち込んでいるメンバーを励ましたり、時には厳しく指導することもあります。とくに演劇志望の学生なんて、アクの強い人ばかりです。舞台に立ってお芝居がやりたいと言って入会してくるわけですが、お芝居を作るためにはみんなで大道具や小道具を作らなければいけないよというと、そんな地味なことはいやだと言います。そんな人たちをなだめすかして、演劇は協力と忍耐の連続だよということを教えたりしました。3年生の時に立ち上げて、学内で簡単な発表会を一回だけやって、後は卒業となったのですが、それから30年以上経った今では、敬和の演劇部は関東大会の常連校となっていると先生から聞いて、自分のことのようにうれしく思います。最初の箱だけ、何とか形にできれば、後は次の人たちが盛り上げてくれるのです。もしかしたら教会の会堂建設も同じかもよというのは、楽観的すぎるでしょうか。ただ心配ばかりしていると楽しいものも楽しくなくなります。先週、教会総会も無事に終わりましたので、今自分にできることをやっていこうというスタイルで行きたいなと思います。
演劇では、舞台に立つ人は脚光を浴びますが、裏方の人々は当然、観客の目には触れません。教会においても、やりがいのある奉仕もあれば、あまり引き受けてもらえない奉仕などもあります。二千年前のコリント教会では、異言を語るような賜物はもてはやされ、逆に目につかないような奉仕は見下されたりすることがありました。しかしまず私たちは、あらゆる奉仕は「私が仕えるのではなく、私の中に生きておられるキリストが仕えておられるのだ」ということを忘れてはなりません。週報を見ると、礼拝司会、集会当番、音響と、色々な奉仕が書いてあります。それはおのおのが与えられた賜物を用いて奉仕しているわけですが、さらに言うならば、それはその人の中にいま、確かに生きておられる神が、その人を通して働かれているということでもあります。神が司会をされます。神が集会当番をされます。神がトイレ掃除をされます。奉仕とはそういうことなのです。それゆえ、私たちのほうから、これは私にふさわしい奉仕だとか、自分にはできない、と言うことはできません。私ではなく、神が私を通して仕えられるのだという思いをもって、教会を建て上げていくことが必要です。
コリント教会の中には、異言を語ったり、解き明かしたりする人々は、自分たちが特別な賜物を与えられていることを誇りました。しかしパウロは、「からだの中で比較的に弱いとみられる器官がむしろなくてはならないものだ」と語りました。それぞれがみこころに応じて賜物を与えられていることを感謝し、その賜物を自分のためにではなく、まわりを生かすために用いていけば、そこには多様性と一致がしっかりと結び合わさった教会が生まれていくのだということをパウロは伝えています。
牧会にはバランスが大事です。一致一致とばかり言っていると教会の雰囲気が窮屈になりますし、かといって放置一辺倒では、ばらばらな群れになってしまいます。しかし、パウロはこの12章でクリスチャンの多様性から語り、そして13章のテーマである愛へと繋げていることは重要です。多様性と一致とのバランスをとるために必要なのは、愛です。愛は、キリストにあって私は教会のからだの一部とされているのだという意識と感謝を生みます。感謝は、あの人も私と同じようにキリストのからだの一部なのだという愛を強めます。13章で詳しく語られますが、愛は、他人の賜物をうらやんだり、ねたんだり、自分には賜物が与えられていないと自己卑下することから私たちを守ります。また、教会という神の家族の中で、あの人が必要としているものは何だろうと想像力を働かせて、その人の役に立ちたいという願いを生み出します。ひとり一人の多様性が、愛という糸で結び合わされて、教会を一致へと導きます。
パウロは、その真理をわかりやすく伝えるために、人間のからだをたとえで用いました。目、耳、鼻、口、手、足、内臓、それらは器官としては違いがあっても、同じ細胞の集まりです。その細胞ひとつ一つに、優れているとか劣っているという違いはありません。しかし異なる目的を果たすために、ある者は目に、ある者は耳に、ある者は心臓に、と作り変えられていきます。それぞれが長所もあれば、短所もあります。目は、見えるけれども匂いを嗅ぐことはできない。口は、ことばを話せるけれども、見ることはできない。それぞれが欠けた所を補い合い、優れた所を分かち合うために、神はそれぞれを異なる者として作ってくださいました。まさにパウロが言うように、私たちは誰一人として、他の人に向かって、「私はあなたを必要としない」などと決して言えないのです。
私たちは、それぞれが支え合いながら生きています。不必要な人など、誰ひとりおりません。パウロはこうも書いています。「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」。「また私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます」と。劣っていることは悪ではありません。劣っているから切り落とすという考え方は、イエス・キリストの中にはありません。主にあってひとつとされた私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官をことさらに尊びます。それは、神が弱さのうちに働かれるお方であるからです。ある人が言いました。「弱いという漢字の中には、羽という文字が隠れている」と。弱さを見つめる者は、そこに羽ばたきの音を聞くことでしょう。自分の力で羽ばたくのではない。神が弱さの中におられ、神が空へと引き上げてくださるのです。
あなたは家族の中で、社会の中で、あるいは教会の中で自分をどんな存在として見ているでしょうか。自分などいなくても会社は回る、自分よりも優れた人たちがいるのだ、その人たちに比べれば自分なんて。だが次のことは忘れないでください。あなたはあなたであってあなたでないということを。キリストがあなたの中に生きておられる。そしてあなたを通して働かれます。私なんか必要ない、と言うならば、それはキリストなんか必要ないということです。あなたのために、キリストは十字架の身代わりの死をも拒まれなかった。あなたのために、キリストはいのちを捨てることを恥としなかった。何のために。あなたの中に生きるためです。ひとり一人は、決してなくてもいい器官なんかじゃありません。今、キリストが生きておられる、そのからだの部分なのです。今週も、私たちは弱さを見つめながら、共に歩んでいきたいと思います。