みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日、パソコンの中の画像を整理していたら、面白いものが出てきました。

何年前か忘れましたが、宣教区で「国外宣教委員会」を立ち上げることになりました。
そのままの名前だと教団の国外宣教委員会とかぶるので「名前を募集します」というコンテストが、そうだ、あった、あった。
どうやら私が「にゃせんこ」というのを思いついて、いろいろとアイディアを書き殴ったようです。四十の男が書くものではありませんが。
たしかにゃせんこの「にゃ」は「Niigata-Yamagata」を縮めたもので、あと宣教(せん)と国外(こ)だったかなあ?
ごめん、ぜんぜん思い出せない。
どうやら同時にマスコットキャラクターも思いついて、それはなぜか「ニャスモくん」という名前になったらしいですね。
将来の夢は同盟教団の国外宣教師(一応お約束)、好きな聖書の人物はニコデモ(ネコデモ救われるから)、
好きな食べ物はタイの名物料理トムヤンクン(ただし猫舌なので冷めたものに限る)、好きな本はもちろん聖書(にゃん語訳)。
しかも同盟教団本家の国外宣教スローガン「
JAWS21」とタイアップするためにサメのかぶりものまで用意されているという徹底ぶり。
相当ヒマじゃないと考えつかないですね。タイムマシンで当時の私を連れてきて部屋の掃除でもさせたいくらいです。
ただ左下に
変なロゴっぽいものが書いてあります。これ、確か東京オリンピックのときに盗作騒ぎで話題になったやつではないでしょうか。
なんでここに書いてあるんだ。あわわ、これ以上触れない方が良さそうです。
でもキャラクターの造形としては、いいとこいってんじゃないすか~と思ったので、特別にトリミング。

じっと見ていると、もふもふしたニャスモくんの肌触りが感じられませんか。
だれか作ってくれないかな。材料費だけだったら払います。あとサメのかぶりものは着脱可能でお願いします。
聖書箇所 『ルカの福音書』14章25-35節
25さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。26「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。27自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。28あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。29計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、30『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。32もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。33そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。34塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。35土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。聞く耳のある者は聞きなさい。」
2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。本日は午後から、会堂建設に関わる、臨時教会総会を開催することになっております。ようやく私たちはこの地に根を下ろして、一つの会堂をここに生み出し、そこを拠点としてこの町と共に歩んでいく、準備ができました。教会総会では、何かを決めたり、承認することも大事なことですが、そこに一人一人が集まるということがそれ以上に大事なことです。私たちクリスチャンが集まるとき、それは異なる者たちがひとつの場所で、同じ空気を吸いながら、一人一人が同じキリストのからだなのだということをかみしめます。午後の教会総会が、神の栄光を表すものとなるために、まず私たちはこの礼拝で、神のことばを真剣に受け取っていきたいと願います。
さて、クリスチャンがイエス様のもとにこうして集まるとき、私はキリストの弟子であるというひとつの決意が、それぞれの心に生まれます。しかし今日の聖書箇所の冒頭、そこには大勢の群衆がイエスと一緒に集まり、その後ろについていましたが、彼らの心はばらばらでした。ある者は、イエスに、その日のパンを求めていました。ある者は、イエスがローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれるようにと願い、ついてきました。ある者は、イエスが行ってきた、めざましい奇跡を自分の前で行ってくれることを願っていました。確かに彼らはイエスと一緒に歩いていたのですが、本当の意味で、一緒に歩いているとは言えなかったのです。そのとき、イエスは振り向いて、群衆にこう語られました。26、27節をお読みします。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」。
イエス様は、たとえどんなにたくさんの人が一緒に歩いていたとしても、それだけで喜ぶような方ではありませんでした。イエス様は、弟子を求めておられました。弟子と群衆の違いは何でしょうか。群衆は、イエスが私に何かを与えてくれることを期待するだけの人々です。願いが満たされればそれ以上は一緒に歩きません。また願いが満たされないとわかれば、あっという間に離れていきます。しかし弟子とは、イエスから何かを求める人々ではなく、むしろイエスが私に求めておられることに、懸命に従っていこうとする者たちです。まさにクリスチャンとは、そのような者たちなのです。
弟子ということに関連して、今までの会堂建設の歩みが思い起こされます。二年前の今ごろ、私たちは、礼拝堂の広さはこれがいい、キッチンの形は、休憩室のディテールは、といろいろと集まって話し合っていました。それは今振り返ってみるとほとんどが今回のプランにて満たされておりますが、しかしそこに至るまでに、会堂建設委員会では、何度も何度も話し合いを繰り返しました。たとえると、それぞれの願いが書かれた積み木の一つ一つを、予算という限られたひとつの木箱の中に何度も何度も入れたり出したりしながら詰め込んできました。信仰があれば、予算はいくらでも増やすことができるという考え方もありますが、それを否定はしなくても、少なくともバランスは必要です。余裕のある建物が建てられたら一番よいでしょう。しかし必要な部屋や施設は何か、それは本当に必要なものなのか、そして本当に必要なものに対しては惜しみなく信仰を働かせます。そういう中で、設計士の協力を得てできあがった基本設計案は、言うならば筋肉質な建物です。決して十分な広さではないかもしれないが、余計なところは何もありません。
振り返ってみると、この会堂のかたち、まさにこれが私たち自身なのだと思うのです。つまり、ひとりの信徒として、そこにはお客様のような人はいない。お客様というのは、自分が利益を受けることばかりを教会に求めている人のことです。私たちはお客様ではなく、教会のからだであり、一人一人が筋肉のように自分の力を精一杯働かせて教会を動かしていく者たちです。それぞれが必要であり、それぞれがかけがえのない者たちであり、新しい教会堂は、そんな私たち教会員自身のあり方も体現している、筋肉質なものとなりました。
私たち一人一人は、ただ救われた者ではなく、弟子であることをイエス様は求めておられます。家族一人一人を憎まない者は私の弟子にふさわしくないとは、なんと厳しいことばでしょうか。しかしそれは「わたしのもとに来て」という言葉が大前提です。イエス様のもとに来て、その恵み、その慈しみを味わっていながら、なおかつイエス様よりも家族の方を大事にするならば、その者は弟子にふさわしくない、ということです。私たちは家族を愛します。救いを願います。しかし家族への愛は決してイエス様にまさるものであってはなりません。まず、私のいのちを救ってくださったイエス様をあらゆるものにまさって愛します。そのうえで、私たちは家族に対して、イエス様の愛を広げていきます。しかし家族からしてみれば、イエス様よりも自分たちのほうが下であるということには不満があるでしょう。だから軋轢が起こります。しかし、その軋轢のなかで、それでも家族を愛しつつ、イエス様を第一として生きていくとき、それが十字架を背負う道となります。そこには犠牲もあります。痛みもあります。しかしそれでもなお、イエス様に従い続ける者たち、それが弟子であり、私たちはキリストの弟子として生きるとき、そこに喜びが沸き起こります。
イエス様は、このあと、二つのたとえを使って、私たちを教えようとしています。塔を建てるとき、費用を計算しない者がいるだろうか。敵国と戦うとき、相手と十分渡り合える兵がいるか、考えない者がいるだろうか。最初のたとえは、まるで会堂建設のことを言っているのかとさえ思いますが、じつはここで言われているのは、私たちが費用を計算するとか、私たちが座ってよく考えるということではありません。「あなたがたのなかで」と言われてはいますが、これは、イエス様のことなのです。神の国という塔を建てるため、あるいは神の国を広げていく戦いのために、イエス様は私たちという、塔のための資材、あるいは戦いのための兵士を用意されました。もし私たちが、自分はキリストの弟子であるという確信があるならば、その次の確信は、神は必ず私を用いて、塔を建て、戦いに勝利されるということです。私たちは弟子です。神が永遠の計画をもって定め、備え、神の国を勝ち取るための必要不可欠な者たちとして遣わされる、真の弟子なのです。
最後の、塩のたとえは説明の必要はないでしょう。私たちの代わりは、どこにもいません。一人一人が、かけがえのない弟子です。塩は防腐剤の役割を果たします。しかしもうひとつ、イスラエルでは作物を成長させる肥料として、塩が用いられていました。もちろん撒きすぎたら逆効果ですが、適度な塩が、作物にいのちと力を与えるのです。適度ということをおぼえてください。クリスチャンは数の力では勝負しません。一人でも二人でも、わずかな者たちを、神は組み合わせて、この世界を救うために用いてくださいます。この町の人々に福音の麗しさを紹介するために十分な会堂を、神は最善をもって用意してくださることでしょう。期待と喜びをもって、一人一人が、イエス様の弟子として、しっかりとイエス様を見つめながら、歩んでいきましょう。