聖書箇所 『ヤコブの手紙』1章16-27節 16私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。17すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。18この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。19私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。20人の怒りは神の義を実現しないのです。21ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。22みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。23みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。24眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。25しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。26自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。27父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。おはようございます。本日も、ヤコブの手紙から、私たちの信仰を育ててくださる神さまの恵みをおぼえていきたいと思います。 先週の日曜日、お名前はあえて出しませんが、小学六年生の女の子から、修学旅行でしょうか、佐渡のおみやげに、小判型のクッキーをいただきました。いろいろなおみやげが並んでいる中で、教会の人たちは何を喜んでくれるだろうかと考えて選んでくださったのではないでしょうか。みやげのセンスもいいですが、何と言ってもその気持ちがうれしかったですね。私が六年生の時、修学旅行は会津若松でした。帰りのバスが出る前、おみやげを買う時間があって、みんなでお店に行ったら、そこに真っ白い木刀が売っていました。お値段はちょっと高めでしたが、有り金全部はたけば買えない金額ではありません。いや、でもな、みやげ買わないとな、でもこれいいな、そしたらそこのおばちゃんが言うのです。ぼっちゃん、それはね、昔、白虎隊といって、まだ若いのに死んでいった子たちが最後に使っていた木刀なんですよ。よく考えれば、白虎隊は木刀では戦わないだろうと思うのですが、そこまで考えがまわりません。まんじゅうは食べたらなくなるが、木刀はなくならない。おみやげはいつまでも残るものがよい、と強引に自分に言い聞かせました。家族の反応は記憶に残っていないので、まあ喜ばれもしなければ怒られもしなかったのでしょう。ただ結局、いつのまにかなくなってしまいましたが。 ヤコブは、神さまが私たちに与えてくださるプレゼントは、決して間違いはない、と語っています。17節をご覧ください。「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです」。ここは、より正確に訳すと、こういう風になります。「上から贈られるものはすべてよい。上から与えられる賜物はすべて完全である」。 上とはもちろん神のことです。私たちの目には不幸に見える出来事、好ましくないように見える人生のイベント、しかしそれらはすべて、神が私たちの信仰を養うために用意されたものである。そこには、一切の間違いはなく、感謝して受け止めるべきものである。なぜなら、それを与えてくださる神は、すべてにおいて完全なお方であるからである、と。 イエス・キリストも、山上の説教の中で、次のような有名なことばを語られました。「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」。 ですから私たちは、どんなことも神さまに感謝していくことを忘れないでいきたいと思います。もちろん、人生には、私たちにとって望ましくないことのオンパレードでさえあるかもしれません。一難去ってまた一難、とあるように、次々と問題が起こり、息つく暇もない、ということもあるかもしれません。しかしあらゆることには、父なる神が定められた目的、計画、そして結果があります。私たちはそれを完全に知ることはできません。しかし信頼することはできます。神が私たちに用意されているのは、常に最善です。それ以外はありません。それを信じるには、どうしたらよいのでしょうか。そこでヤコブのことばは、みことばに向かいます。21節をご覧ください。「ですから、すべての汚れやあらゆる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」。 ここでいう、「すべての汚れやあらゆる悪」とは、罪や汚れ全般ではなく、みことばを聞くときに心に生まれる汚れや悪を表しています。そういうと驚く方もいるかもしれません。みことばを聞いたときに生まれる汚れや悪など、そんなものがあるのか、と。あるのです。みことばが語られるとき、常に積極的な応答があるわけではありません。「そんなものはきれい事に過ぎない」という反発、「他の人にはできても私には無理だ」というあきらめ、本来私たちの心を砕いて、神さまの前に全面降伏するはずのみことばが、かえって私たちの心をかたくなにし、自分を王様にしてしまうということがあるのです。 ある教会にひとりのご婦人がおられました。毎週、礼拝に欠かさず出席する、熱心な方だったのですが、毎回、礼拝が終わると牧師のところに来て、「今日の説教は、今週礼拝を欠席したあの姉妹にこそ聞いて欲しかった」とか、「今日の目セージは、教会に来ない私の主人に聞いてほしかった」と、必ず自分ではなく、他の人にあてはめるそうです。そこで牧師がとうとう、ある日のメッセージで「みことばは自分に適用しなければいけない」と語ったそうです。礼拝後、いつものようにこの婦人がやってきて、こう言いました。「先生、今日のメッセージで私は悔い改めました。私自身に語られているのですね。ああ、十年前の私に聞かせてあげたいお話でした」。 みことばは自分自身に語られているのもそうですが、過去の私でも将来の私でもなく、いまの自分自身に語られているものです。みことばを聞くことは、自分自身を鏡に映すことだとヤコブは語ります。23節をご覧ください。「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」 鏡に映るのは昔の私ではなく、今の私です。確かに救われたことは間違いありませんが、今も罪と戦い続けている私です。そしてその戦いの中で、あるときには罪と妥協し、あるいは罪を見つめることから逃げ回ってしまうこともある、私の姿が映っています。しかし少なくとも、みことばを聞き、そこに今の自分自身を認めようとする人は、聖霊によって変えられていく機会を与えられています。ですが、みことばを聞いても、それを心にしっかりと受け止めようとしないならば、罪がどれほど私たちの心にこびりついているのかがわからないままで、救われたという喜びも薄いままで終わってしまいます。そうであってはなりません。このみことばを心に受け入れ、そこから離れない人になりましょう。そうすれば、みことばを実際に行う人になるのです。 人がみことばを聞き、そのみことばを受け入れるとき、わざわざ復唱しなくても、「神を愛し、自分を愛するように、あなたの隣人を愛する」という愛の三角形が生まれます。神が私を愛してくださったゆえに、自分を受け入れられるようになり、他の人も受け入れ、そして他の人のためにも死んでくださった神を愛する、愛の無限ループが生まれるわけです。まことの信仰は、礼拝、伝道、奉仕のうえでバランスのとれたものになります。孤児ややもめの世話をするという、外にも目を向ける一方で、この世の汚れに染まらないために神との一対一の関係もなおざりにしない、バランスのとれた信仰を目指しましょう。十字架は神と人と隣人との関係を表しているとよく言われます。あまりにも横木が短すぎる十字架も、あるいは長すぎる十字架も、いびつなものです。神との関係を第一にしていくとき、おのずとその愛の関係は隣人へと向かっていきます。これからの一週間も、みことばと共に歩んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会
2024.6.16「みことばは私を映し出す鏡」(ヤコブ1:16-27)
みなさん、おはようございます。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
能登地方および台湾地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。