聖書箇所 『ヤコブの手紙』1章1-15節 1神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります。2私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。3あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。4その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。5あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。6ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。7その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。8そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。9身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとしなさい。10富んでいる人は、自分が低くされることを誇りとしなさい。富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行くのです。11太陽が昇って炎熱をもたらすと、草を枯らします。すると花は落ち、美しい姿は失われます。そのように、富んでいる人も旅路の途中で消えて行くのです。12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。13だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。14人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。15そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。おはようございます。今週は新約聖書の終わりのほうにある、『ヤコブの手紙』から一緒に学んでいきましょう。この手紙の著者ヤコブは、イエスのじつのきょうだいです。最初はイエスを信じていなかったのですが、お兄ちゃんが十字架にかかってよみがえった後に信じて、その後はペテロやパウロに並ぶ、教会の指導者として働きました。もうこれ自体が、私たちに対する励ましですよね。イエス様がどんなに世のため人のために働いていても、彼を含めて弟妹たちはイエスをまったく信じなかったのですが、ずっと後になって、彼らは信じたのです。イエス様でさえ家族伝道は難しかったのですから、私たちはなおさらです。そしてずっと後になってヤコブが信じたように、今私たちが家族に対して証し、伝道している種は、ずっと後になって実を結ぶのです。だからあきらめないで、語り続けましょう。 さて、そのヤコブですが、手紙の書き出しで、「離散している十二部族にあいさつを送ります」と言っています。使徒の働き2章には、五旬節の祭りのためにエルサレムに集まっていた人々が三千人も救われた出来事が載っていますが、彼らはもともと遠い昔に外国に散らされて、何百年もそこで暮らしていたユダヤ人たちでした。五旬節の祭りのときにイエスを信じて救われましたが、またすぐにそれぞれ外国の自分の家に戻って、そこで信仰生活を始めたことでしょう。しかし、自分の家や自分の町でクリスチャンは自分だけといった生活の中で、彼らが信仰を守っていくのは大変なことでした。せっかく信じた信仰を捨ててしまう危険にさらされていた者たちも少なくなかったことでしょう。そのような信者たちに、ヤコブは励ましの手紙を書いているのです。 私たちも、環境としては似ているのではないでしょうか。教会に来れば、こうしてたくさんの仲間との交わりがありますが、家に帰ればクリスチャンは私だけ、月曜日から土曜日まで、家庭でも、職場でも、地域でも、ひとりぼっちの信仰の戦いという人のほうが多いかもしれません。そんな生活の中で、水曜や木曜の祈祷会や日曜日の礼拝に来て励まされるというのも、ひとつの道ですが、もっと大事なことは、ひとりぼっちのように見える六日間の日常生活の中でも、私たちはいつでも聖書を開き、そこで力を受け取るということです。聖書は日曜日だけに開くためではなく、毎日開き続け、私たちの血となり骨となっていくために、与えられているということを、私たちも改めて覚えていきたいと思います。 さて、今日の聖書箇所の中で、一つの大事なキーワードは「試練と誘惑」であります。しかし以前もお話ししましたが、日本語では試練と誘惑というまったく別のことばに訳されていますが、もともとのギリシャ語では、同じことばが使われています。つまり、多くの人が誤解しているように、神は試練を持ってきて、悪魔は誘惑を持ってくるということではないのです。神のみこころは、あらゆる出来事を通して私たちを霊的に成熟した大人として成長させようとしているのに、人間のほうで勝手にこれは試練だとか、これは誘惑だとか決めつけてしまうのです。神がこの地上でクリスチャンに与えるものは、一切のムダがありません。不要に見えるトラブルであっても、そこには私たちがそこに向き合うことを通して成長に導くというみこころがあります。でも私たちが逃げ回ってばかりいたら、何にもならないということですね。 ヤコブは、この手紙を受け取った、外国で孤軍奮闘の生活を送っているクリスチャンたちが、いま抱えている問題を信仰によって受け止めることを期待しながら語っています。問題が消え去ることが神の恵みではないし、解決することが喜びをもたらすのではありません。どんな出来事であろうとも、それは私たちを成長させるために神が与えてくださったものなのだと信じて従うとき、そこに忍耐が生まれる。待つという信仰が生まれる。そのとき、そのようなクリスチャンは「何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となる」と約束されているのです。 もちろんそれは決して簡単なことではないことも確かです。試練の中にいるとき、私たちは自分が進んでいる道が、いったいどこにつながっていくのかがわからず、不安になります。今手元にある資金、いま助けとなってくれる人材、「いま」に関するものは見えていても、「これから」どうなるかわからない。そういう中で、クリスチャンであっても心配になるのです。しかしだからこそ、ヤコブは言うのです。5節をご覧ください。「だれにでも、惜しみなく与えてくださるお方に、知恵を求めよ」と。疑いながら信じるという二心ではなく、少しも疑わずに信じよ、とも勧められています。 しかし疑わずに信じるためには、どうしたらよいのでしょうか。神を信じるしかありません。もう少し正確に言うならば、神を信頼する以外にはありません。信頼とは、保証を必要としない関係のことです。神を信頼するとは、神さまがどんな方かをよく知っているかどうかにかかっています。 あなたの今までの人生を振り返ってみてください。神に裏切られ続けた人生でしたか。それとも神への信頼が裏切られたことなど一度もなかった人生でしたか。人に裏切られることは数あれど、それでもすべての人が離れていっても、神に出会うことができた人生だとしたら、幸いです。13節でヤコブは、神は悪に誘惑されることがなく、誰かを誘惑することもない方である、とはっきりと語ります。それはヤコブがイエス・キリストを救い主として信じて以来、いつも神と共に歩んでいたなかで、神はどういうお方かということをいつも味わってきたこその確信です。神は決して誘惑などされない。神が私たちに与えようとしておられるのは恵みであり、試練なのだ。私たちを霊的に大人に成長させるために与えてくださる、とっておきの最上の賜物なのだ、と。 結論に入ります。12節をご覧ください。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです」。パウロもまた、神は私たちを耐えられないような試練に会わせることはない、と語っています。神は、私たちの霊的成長のために、試練を与えられるのです。しかし悲しいかな、神は試練を通して私たちをキリストにそっくりなものとして練り上げようとしておられるのに、私たちの側で、そこから逃げ出してしまう、あるいは、みこころとは違う方法で、解決しようとしてしまうことも多いのです。つまり、本来、試練として与えられているものを、人間が自分の都合で、誘惑に変えてしまうのです。ですから私たちは、日々、聖書を開き、神のみこころを体験していなければなりません。 ある人は、「神のみこころなど、人間には決してわからない」というのですが、私はそれは半分正解で、半分誤解であると答えます。聖書の中には、神のみこころと、自分の欲望のはざまで戦い続けた、数え切れない信仰者の姿が描かれています。そのような信仰の先輩たちの姿を、何度も何度も聖書を読み味わうなかで、私たちの中には、神に従う人々のパターン、将棋や囲碁で言うところの定石(じょうせき)というものが積み上げられていくのです。 聖書を開き、信仰の定石を学び、それを生活の中で実践し、何度も失敗しながら、その中で着実に成長していく。そのような信仰生活を神は私たちに与えてくださいます。みこころは聖書の中に隠されていて、私たちがそれを見つけ出すことを神は期待しておられます。今も、みこころを求めて悩んでいる人々がいることでしょう。苦しいとき、聖書を開きましょう。わからなければ、知恵を求めましょう。先が見えないとき、何かの保証を求めるよりも、ただ神に信頼しましょう。一人一人のこれからの歩みが、豊かに祝福されますように。2017 新日本聖書刊行会
2024.6.9「信仰の成熟を目指して」(ヤコブ1:1-15)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
能登地方および台湾地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。