聖書箇所 『コリント人への手紙 第一』1章18-25節 18十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。19「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。20知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。21神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。おはようございます。今日は新約聖書にある、パウロの手紙の中の一つ、コリント教会への第一の手紙から、私たちに対する励ましのみことばを受け取っていきたいと思います。 ちょうど今から35年前、1989年6月4日、中国で天安門事件というものが起こりました。これは大変複雑な背景を持っている事件なので、ここでは詳しく説明することはできないのですが、当時の中国政府の中にある民主派への圧力に端を発したこの事件は、数日間のうちに中国全土に広がって、数多くの大学生が立ち上がって中国政府に抗議運動を起こすという出来事に発展しました。当時私は高校生でしたが、中国軍から民衆が武器を奪い、その民衆に対してさらに軍が発砲するようなニュース映像を、驚きと不安を覚えながら見た記憶が残っています。 今回のコロナ事件でも一時期有名になった、武漢という大きな都市があります。天安門事件のとき、武漢の大学でも多くの大学生が立ち上がりましたが、その武漢大学で日本語を教えていた日本人がいました。あえて名前は言いませんが、その方は宣教師でもありまして、中国政府から国外退去された後、日本に戻ってきて、当時、新潟地区の教会も巡回報告されました。その頃の私は山の下福音教会で求道中でしたが、ちょうど木曜夜の祈祷会に、この先生が来られました。そしてその晩、この先生から一時間くらいの個人伝道を通して、私はイエス・キリストを信じました。もちろん、その一時間で信じたというよりは、それまでの二年近い教会生活の積み上げがあってこそ、その晩、信じたのだと思いますが、それからもその先生とは交わりがあり、私がこの豊栄キリスト教会に赴任した翌年に、教会で特別伝道集会の講師としてお呼びしたこともありました。 この先生が、私が大学生の頃に話してくださった言葉があります。それは、「福音に中立なし」という言葉でした。日本でははっきりとキリスト教を敵視する人は少ない。トラクトを渡せば一応受け取ってくれるし、教会案内を渡せば、「そのうちに行きます」という人もいる。家族の中にも、イエスは信じていないけれども、信仰を尊重し、時には献金もしてくれるということもあるかもしれない。しかしどれだけクリスチャンに好意的であったとしても、やがて地上の命を終えたときには、神のさばきの場に立たなければならない。その時にそこから先を分けるのは、主イエスを救い主として告白しているか、それとも告白していなかったか、そのどちらかしかない。だから私たちは、この地上において命あるうちに、キリストを信じなければならない、そして伝えなければならないのだ、と。 パウロは、18節でこのように語っています。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」。パウロによれば、世の中には二種類の人間しかいません。「滅びる者たち」と「救われる者たち」です。そこには、滅びもしないし、救われてもいないという、第三の立場はないのです。あらゆる人間は、究極的には二つに分けられます。永遠の救いか、永遠の滅びかのどちらかしかありません。しかしここでパウロは、滅びる者たちの特徴について語っています。それは何でしょうか。十字架のことばを「愚か」なものと考えていることです。そしてこの「愚かさ」という言葉こそ、今日の聖書箇所全体に流れている、重要なキーワードです。20節では、神はこの世の知恵を愚かなものにされたではないかと語られています。また21節では、神は宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされた、とも語られています。 イエス・キリストを信じるならば罪ゆるされ、永遠のいのちが与えられる。それは人間の知性では理解できません。私たちがどんなに熱心に証しをしようと、ばかばかしい、その一言で片付けられてしまう、愚かな言葉です。しかし、愚かであるからこそ、それに応答する人々は、恵みによって救われたとしか言いようがないのです。最後の25節では、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と語られています。どうして私たちは十字架で殺されたイエスを救い主として信じることができたのか。それは多くの人の目には愚かとしか言いようがない。しかしそこには人の理性や感情、常識を越えた、聖霊なる神の働きがあったからなのです。 本当のキリスト教は、この愚かに見える、十字架のことばによって、人々を救うのだというところから離れません。しかし近代に入ると、これとは違う福音が現れてきました。それは何かというと、人の目には愚かなことばよりも、人の目に驚きを与えるような奇跡を生み出すことで、人々は福音に引きつけられ、救われる人々が起こされていく、という考え方です。しかしかつてパリサイ人たちが、イエス様に対し、「あなたが救い主である証拠に、天からのしるしを見せてみよ」と迫ったとき、イエス様は「愚かな、悪い時代だ。ヨナのしるし以外、しるしは一切与えられないであろう」と答えました。確かにイエス様は奇跡を起こしました。病気をいやし、死んだ人をよみがえらせ、悪霊を追い出しました。しかしそのような奇跡を通してイエス様に近づいた人々は、結局、最後には十字架から離れていったのです。むしろイエス様がまことの弟子として認めたのは、しるしを見て信じる人びとではなく、愚かに思えるようなイエスのことばを信じ、従い続けた人々でした。 パウロは22節以降でこう語っています。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます、と。「要求」「追求」という言葉をパウロが注意深く用いていることに、まさに注目してください。ユダヤ人、ギリシア人、そして日本人、どの時代でも、どの国でも、人々は何かを与えられることを「救い」だと思っています。だから自分の求めているものが与えられないと、簡単に信仰を捨ててしまうという人さえいます。しかし救いとは、与えられることではなく、与えることです。いや、さらに正確に言うならば、与えることを惜しむ、かつての罪人が、自らのいのちさえもだれかのために与えることを喜びとする、そのような者に生まれ変わることです。 以前ブラジルで宣教師として働いておられた牧師先生がこう語っておられました。ブラジルのように貧富の差が激しい国では、教会には多くの人々がこの世の糧と保護を求めて集まってくる。それに対して教会が具体的な援助を与えることは、宣教のきっかけにはなる、しかし宣教そのものではない。その集まって来た多くの人々が、求めが満たされれば離れてしまうことは覚悟しなければならない。そしてクリスチャンが、求めることばかり考えて、それがどんなに数が多くなったとしても、それはリバイバルとは言えない、と。 本当のリバイバルは、一人一人のクリスチャンが、自分のために生きている人生から、だれかのために生きる人生へと確かに変えられることです。私たちは、キリストと結びつくために、このお方との交わりに招かれました。イエス様は私たちのために死んでくださり、私たちはイエス様の御名によってバプテスマを受け、イエス様の十字架に連なることで、神のものとされています。宣教の愚かさ、そこにつながり続けていきたいと願います。2017 新日本聖書刊行会
2024.6.2「宣教のことばの愚かさ」(第一コリント1:18-25)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
能登地方および台湾地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。