聖書箇所 『使徒の働き』2章1-13節 1五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。2すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。3また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。4すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。 5さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、6この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。7彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。8それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。9私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、10フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、11ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」12人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。13だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。おはようございます。今日、本間先生の代わりに、新発田キリスト教会、および村上福音キリスト教会で、礼拝メッセージを語ることができたことを、心から感謝しております。いま、私たち同盟教団では、秋田への開拓伝道を始めようとしておりますが、最初は教団レベルで始まっても、十年後には、この新潟山形宣教区が経済的にも支援していくことになるでしょう。そうなると、名前も新潟山形秋田宣教区と言うのは長すぎるので、羽越宣教区、機関誌の名前も福音羽越と、特急列車みたいな名前になると思います。そしてもっと重要なことは、そのときには私たち、村上、新発田、豊栄、そして山形という、いわば北部戦線に属している教会が、他の教会以上に協力して、秋田の教会を支えていくことが大切になってくるのだろうと思うのです。気の早い話と言われるかもしれませんが、新発田、村上、豊栄に、さらに山形もプラスして、より仲良くしていくこと、そのために今日、こうしてこちらに来ることができたことを感謝しております。 今は東京で暮らしているが、生まれも育ちも秋田という、ある作家のエッセイにこういうものがありました。ある日のこと、東京のなんとかという町に、秋田の郷土料理専門店があるという噂を聞き、秋田出身の仲間たちで連れ立って、食べにいったそうです。仲間の一人がウキウキした様子でこう言った。「おがみもバイトも、ままんで秋田のすとだど。たのすみだな」(女将もアルバイトも、みんな秋田の人だって。楽しみだなあ) その店に行くと、確かに女将や板前、アルバイトに至るまで、みんなが秋田弁を使っていました。しかしどうも違和感がある。秋田弁は使うのだが、スキッとしてキリッとした秋田弁なのだ。ああ、そうか。訛りがないんだ。まるで東京出身の女優が、芝居で秋田の人を演じているような感覚。連れの一人が、とうとうアルバイト学生に言ってしまった。「嘘つぐなでば。おめ、秋田でねえべ。ホントはどこだ?東京だか?え?言ってみれ」すると学生は必死で反論した。「本当に秋田で生まれて育ちました。今、大学二年だけど高校までずっと秋田でした」。そして、地元の様子や小学校名などを言う。連れは「すまねがった」と一言謝ったが、後はみんな無口になってしまい、お開きになったそうです。その作家は、エッセイの最後にこう書きました。「私は人生の半分を物書きとして過ごしてきたが、あの夜に初めて、方言の中心をなすものは「訛り」であると実感した。外国語を学ぶのと同じように、各地の方言の単語や構文は学習できる。しかし、「訛り」は生活しないと身につかない。それはその地の風土を体に取り込むことなのだ」。 今日はキリスト教会の暦でペンテコステと呼ばれる日です。それは二千年前、弟子たちに聖霊が下り、教会が生まれた日のことです。聖書によれば、その日聖霊に満たされた弟子たちは、様々な国の言葉を使って神のみわざを語ったとあります。そして私は先ほどのエッセイを読み終えたとき、弟子たちが様々な国の訛り言葉を使って、神のみわざを語っている姿を思い浮かべました。なぜならば、訛りとは、生活の証しだからです。自戒をこめて語りますが、机の上で作り出された言葉、あるいは書物からそのまま引っ張ってきた言葉は、人々の心を変えることはできません。生活の中で経験し、生活の中で咀嚼され、自分のものとなった言葉だけが、人々の心を変えることができます。 もし私たちの証しのことばが、人々を振り向かせることができないとしたら、それは、私たちが生活から生み出される言葉を語っていないということではないでしょうか。神、罪、救い、イエス・キリスト、永遠の御国。福音を構成する単語を、私たちは知っています。しかしそれが聖書から引っ張って来ただけの知識の羅列として語られるとき、その人の証しはあたかも訛りのない方言のように、薄ら寒いものにしか聞こえません。人々の心に届くためには、訛り、それも霊的な訛りが必要です。福音が私たちの生活の中で、血となり肉となり、私たちの体に取り込まれていることが自ずと感じられる、そんな証しが必要です。イエス・キリストは、あなたの罪のために死なれた。それは罪赦された罪人しか語ることができない言葉です。なぜ神は罪なき御使いたちに福音宣教をゆだねず、私たち教会に宣教の使命を与えられたのか。それは、罪赦す福音は、罪赦された者にしか語ることのできない言葉だからです。そのために、神は聖霊を与えてくださった。それがペンテコステの意義です。 私たちはしばしば、自分の罪の大きさに飲み込まれそうになる。しかし聖霊なる神が私たちと共に働かれるとき、罪人の証しのことばは神からのメッセージとなる。人々の心を変え、悔い改めと永遠のいのちへと導くことができるのです。かつて求道者として教会に通っていた頃、献金の時のお祈りに私はうんざりしたものです。なぜクリスチャンたちは、「私のような罪人」と延々と繰り返し続けるのだろう。信仰が深まれば深まるほど罪を犯さなくなるんじゃないのか?本当にこの教会は、ちゃんとしたキリスト教なんだろうか。しかし今ではこう言うことができます。ちゃんとした教会は、どんなに小さな罪からも決して目をそむけない、と。だから私はちゃんとした教会で生まれ育ったことを誇りに思っているし、自分が遣わされている教会を、ちゃんとさせていく務めがあります。 初めて教会に来た人々は、まるで方言の世界に飛び込んだかのような錯覚を受けるでしょう。恵み、交わり、兄弟姉妹、神、救い、今まで聞いたこともない、あるいは想像していたものとは違う、別の言葉が飛び交っている礼拝に戸惑います。そしてその中でも「罪」という言葉は、まるで訛りのようです。牧師の話、クリスチャンの祈り、何度も繰り返し罪という言葉が語られます。私は罪人じゃないのに、なぜこんな話を聞かされなければならないのか。それは東京の人が、聞き取りづらい秋田独特の訛りに不快感さえおぼえるのに似ています。しかし訛りというものがその地で生活している証しであるように、罪の自覚というものも、この世で生きている証しです。 生きる、それは人の罪と、自分の罪を見つめずにはいられません。生きる、その旅において、私たちは人を傷つけ、自分を傷つけていきます。私には罪はない、誰も傷つけていないと豪語する者は、人と関わらないで生きてきた人でしょう。それは実際には死んでいるのと同じ意味です。クリスチャンは、決して罪を隠しません。それは、私は生きている、と叫んでいるのです。世の中には罪から目をそむけ、罪を隠し、生きながら死んでいる人々があふれています。その人々に届くメッセージは、罪赦された罪人によるこんな言葉です。「私は生きている。イエス・キリストにお会いして、罪赦され、永遠のいのちをいただいた。あなたもこの方を信じれば、生きる。自分の罪のおぞましさに押しつぶされそうになるときでも、罪赦された喜びがあふれてくる!」それは、罪赦された罪人にしか語ることのできない、十字架のメッセージです。罪赦された罪人だけに語ることができる言葉、それを御霊は与えてくださいました。私のような罪人のためにイエスは死んでくださった。そしてこのイエスは、あなたのためにも死んでくださったのだ。これこそが私たちの生活の中からにじみ出る言葉です。 世界中で、そしてこの日本、新潟、阿賀北で、私たちは罪赦された罪人として、生きた言葉を語ります。今日、私たちは今一度自分の心の中を探り、自分の罪を見つめましょう。それは罪の大きさに意気消沈するためではありません。私たちにしか語ることのできない、罪の赦しの言葉を世に語っていくためです。そしてまだイエス・キリストを信じていない人は、今日信じましょう。私たちがイエスを心に受け入れるとき、すべての罪は赦されます。そして永遠のいのちがいただけるのです。2017 新日本聖書刊行会
2024.5.19「なまりだらけのペンテコステ」(使徒2:1-13)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
能登地方および台湾地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。