みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
能登地方および台湾地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
昔、ある牧師先生が証ししてくださったお話です。高校生の頃、求道者としてすでに何年も教会に通っておりましたが、洗礼ということについては決断を保留していました。周りの信徒さんたちからも、「○○クン、早く洗礼を受けないかしら」という気配をビンビン感じていたそうですが、本人はあえて気づかないふりをしていたそうです。そうしたら、教会の図書を担当している姉妹が、会堂や玄関の目につくところに『
洗礼を受けたいと思っている君たちへ』とか『
今こそ決心するとき』といったタイトルの本を並べ始めたとのこと。付き合っている彼女が部屋のあちこちに『ゼ○シィ』を山積みにし始めたという話は聞いたことがありますが、教会でも似たようなことがあるんですネ。しかしとうとう年貢の納め時が訪れました。ある日、牧師が彼に「そろそろですね」と声をかけたそうです。たまたま誕生日が一週間後に迫っていたので、「そうですね、覚えていてくださってありがとうございます」と答えたら、牧師が大きな声で「みなさん!ついに○○くんがイエス様を受け入れる決心をしました!」と宣言!「えっ・_・;そろそろって誕生日じゃなくて洗礼のことかよ」と思ったものの「まあいいか」。そんな○○さんも立派な牧師になりました。洗礼を受けたからクリスチャンになるわけではありませんが、こういうエピソードにも、その背後には聖霊の導きがあるのでしょう。感謝。
聖書箇所 『ヨシュア記』5章1-9節
1ヨルダン川の反対側、すなわち西側にいるアモリ人のすべての王たちと、海沿いにいるカナン人のすべての王たちは、主がイスラエル人の前で、彼らが渡り終えるまでヨルダン川の水を涸らしたことを聞くと、心が萎え、イスラエル人のゆえに気力を失ってしまった。2そのとき、主はヨシュアに告げられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエルの子らに割礼を施せ。」3ヨシュアは自ら火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハ・アラロテでイスラエルの子らに割礼を施した。4ヨシュアが割礼を施した理由はこうである。エジプトを出たすべての民のうち男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出てから途中で荒野で死んだ。5出て来た民はみな割礼を受けていたが、エジプトを出てから途中で荒野で生まれた民はみな、割礼を受けていなかった。6イスラエルの子らは四十年間荒野を歩き回り、その間に民全体が、すなわちエジプトを出た戦士たち全員が、死に絶えてしまったからである。彼らが主の御声に聞き従わなかったので、私たちに与えると主が彼らの父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのである。7そして、息子たちを彼らに代わって起こされた。ヨシュアは彼らに割礼を施したのである。彼らが途中で割礼を受けておらず、無割礼だったからである。8民はみな割礼を受けると、傷が治るまで宿営の自分たちのところにとどまった。9主はヨシュアに告げられた。「今日、わたしはエジプトの恥辱をあなたがたから取り除いた。」それで、その場所の名はギルガルと呼ばれた。今日もそうである。
2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。いったいヨシュア記をいつまで続けるのかと思われるかもしれませんが、来週、エリコの城壁が崩れるところまで、語らせていただきたいと思います。そして2週間後のペンテコステ礼拝を迎えましょう。
3年に一回、私は義足を作り替えることになっているのですが、先日、完成した義足を受け取りに、市内の義肢装具士のところを訪れました。そこの社長さんはもう三十年以上お世話になっておりますが、義肢装具の業界では一目置かれている方で、いつも同業者の方が研修に来ておられます。義足を取りに行くと、会社の前に大きなキャンピングカーが止まっていて、中に入ると、東京から二泊三日で研修に来たという方々がおられました。宿泊費を節約するためにキャンピングカーで車中泊に来たそうです。三人くらいおられたのですが、みなさん義足なのですね。3歳の時にトラックにひかれたという三十代くらいの方もおられましたし、私と同じくらいの年齢で、4年前に自動車事故でやはり足を失ったという方もおられました。私が聞き出したのではなくて、初対面なんですが向こうから、そういうヘビーな話を笑顔で話されるわけです。ああ、クリスチャンに似ているなあと思いました。クリスチャンがイエス様に出会って救われた経験を話したいように、彼らも一度はこれで終わりかとあきらめた人生を、義肢装具士という仕事に出会って生きがいを取り戻したことを話したくてたまらないんだろうなあ、と。大型連休に入り、久しぶりの方と話したり、新しい出会いなどもあるかもしれませんが、イエス・キリストにある私たちの人生を自然と証ししていきたいと思わされます。証ししなければとか伝道しなければと身構えてしまうと、向こうも同じように身構えてしまうので、もっと自然に、イエス様に出会って新しくされた人生をだれかにお話したいなあと思わせられます。
さて、今日の聖書箇所は「割礼」という、旧約聖書独特の言葉が出てきます。とくに子どもたちにはわかりにくい聖書箇所であるかもしれませんが、じつは今日の聖書箇所は、まさに子どもたちに聞いてほしい箇所でもあります。イスラエルの民は、大人も子どももみな、ヨシュアに率いられて、ヨルダン川を渡り終えました。彼らの目の前には、高い城壁を持ち、敵の攻撃を一切受け付けないエリコの町がそびえています。エリコの住民を含め、カナン人たちは、イスラエルの神が数々の奇跡を起こして、民をここまで導いてきたことを聞いて、すっかり勇気を失っていました。人間的な見方をすれば、彼らが力を失っている今こそ、イスラエルにとってエリコの町を攻撃するチャンスです。しかし神がヨシュアに命じたのは、荒野で生まれたために、割礼を受けていない、イスラエルのすべての男子に、割礼を施せ、というものでした。信仰者の戦いは、人間的な武器やタイミングを駆使して一気に攻めかかるよりも大事なことがあります。それは、自分たちがまず神にふさわしい者として、時間をかけて整えられるということなのです。
割礼というのは、男性の急所を覆っている皮膚を取り除くことです。その痛みたるや、数日間、七転八倒するような痛みであるそうです。とても戦うどころではないし、もし攻めてこられても、立ち上がることさえできないような痛みです。しかしエリコの真っ正面で、神はこの割礼を受けることを人々に命じました。それは、荒野で生まれて、荒野で成長し、そして今、約束の地に入ろうとしている、イスラエルの第二世代が、たしかに神の民であることを確認するためでした。割礼を受けたから神の民になるわけではありません。しかし神の民になった証が、この割礼です。これと同じようなことを、どこかで聞いたことはないでしょうか。
クリスチャンにとっての洗礼が、まさに同じなのです。洗礼を受けたからクリスチャンになるわけではありません。私たちはイエス・キリストを信じたとき、御霊という証印をいただいて、そのときからクリスチャンです。しかし洗礼を受けることを通して、自分が救われたクリスチャンであることを公に表していきます。クリスチャンとして生きるというのは、昔のような隠れキリシタンのようにひっそりと生きるのではなく、いつも自分の信仰をだれかに伝えずにはいられないという人生です。いつもだれかに、私が救われたことを言葉や態度に表します。その最初が、この洗礼なのですね。教会員の前で洗礼を受けることを通して、私たちは自分の信仰を公に表します。そして、信仰を公に言い表していく、ということが、地上の生涯の中でずっと続いていくのです。
今日のクリスチャンにとって、割礼は意味のないことです。なぜなら神は、私たちの神であるしるしを肉の体にではなくて、心に刻みつけてくださったからです。聖霊を注がれて、イエス・キリストを主と信じたこと。このお方を救い主としてはっきりと告白したこと。己の十字架を背負って、この方と共に歩んでいくと決意したこと。それらすべてが、私たちにとっての心の割礼です。後のユダヤ人は、割礼を受けていることこそが神の民のしるしとし、かえって高慢に陥りました。今日の私たちも、洗礼を受けていること、教会の会員であること、献金や奉仕、といった外面的なことが高慢となってしまうこともあります。しかし信仰はまず心の中から始まります。外面的なものではなく内面的なもの。そして心の中で十字架と復活を意識して歩むときに起こる、その内面の喜びが行動へと溢れ出て、教会を生かしていくのです。
イスラエル人たちは、割礼を受けよとの神の命令にみなが従いました。それを主がご覧になったとき、「きょう、私はエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた」と言われたのです。エジプトのそしり、それは神がエジプトから解放してくださったにもかかわらず、神に反逆して荒野を40年間さまようことになったイスラエルに対する、世の人々のあざけりでした。しかし神の命令に従い、割礼を受けたことによって彼らは自分たちが新しい者となったことを証しし、主もそれをお認めになられたのです。今イエス・キリストを信じている私たちは、確かに神の民であり、神の家族です。クリスチャンだから、何やら立派に生きなければならないというようなことはありません。でも、私のためにイエス様がいのちを捨ててくださったと信じる者は、与えられたいのちを今度はだれかのために使っていこうと願います。みなさん一人一人が、まさに、その信じる者なのだろうと思います。これからの一週間、いや、これからの一日を通して、救われた喜びをもって、歩んでいきましょう。神のものとされたしるしは、私たちの心の中にあります。喜びつつ、前へ進んでいきましょう。