みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
最近、「お祈りいたします」しか書いていないので、しょうもない小咄(こばなし)を一つ。
今日、結婚式場の前を車で通りかかったら、妻が「ロージンバードはどこにあるんだろうね」と一言。
老人バード?こんな鳥でしょうか?

もちろんバージンロードのことです。それにしてもこの鳥(ヨタカ)の顔、夢に見そうですね。ではグッナイ
聖書箇所 『ルカの福音書』20章45-21章4節
45また、人々がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに言われた。46「律法学者たちには用心しなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好みます。47また、やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです。」
1イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた。2そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て、3こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。4あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
2017 新日本聖書刊行会
序.
私たちが手にしている聖書は、すべての箇所に何章何節とつけられているので、たいへん便利です。しかしもともと聖書には章や節はついていませんでした。今から六百年くらい前、グーテンベルクという人が、金属で活字を作って本を大量に印刷する技術、いわゆる「かっぱんいんさつ」を発明しました。それまでは聖書は、修道士が一文字一文字、手書きで写していたのですが、これによって聖書が庶民のもとに届けられるようになりました。それからしばらくして、ある印刷屋が聖書に章と節をつけるようになり、それが広まって、今日に至ります。
ですから私たちは20章から21章に変わったりすると、話が切り替わったかのように考えますが、じつはそんなことはなくて、全部つながっているのですね。先週の聖書箇所で言えば、ダビデの子についての質問は、その直後の、律法学者に用心しなさいという警告につながって、さらにその律法学者についての警告は、その直後の貧しいやもめが生活費のすべてをささげた話につながり、そしてこの貧しいやもめの物語は、イエス様が次に語られる、世の終わりが近づくと、神殿もすべて崩されるという警告へとつながっていきます。いま金太郎飴と言っても若い子には通じないかもしれませんが、章が変わると話が切り替わるのではなくて、金太郎飴のようにどこを切っても、全部同じようにつながっているのです。
ですから一番理想的な読み方は、たとえばルカの福音書を一章から読み始めたら、一気に最後まで読んでしまうことですが、それは忙しい現代人には不可能ですし、忙しくなくても途中で投げ出してしまいますのでやはり不可能ですが、せめて今読んでいる所は、章が変わってもその前と後ろにつながっているということを意識しながら読んでいただきたいと思います。
1.
さて、また前置きが長くなりましたが、この貧しいやもめがささげたレプタ銅貨2枚という金額は、当時の労働者の日給の64分の一にあたります。今日の金額に直せば、百円か百五十円といったところでしょう。それがこのやもめの生活費のすべてだとイエス様は言われます。なんで財布の中身まで知っているんだというのは置いといて、このようなやもめ、身よりのない未亡人たちは、経済的にも、社会的にもおとしめられていた人でした。彼女たちは、この直前にある、律法学者のような人々に、社会的にも精神的にも依存するしかありませんでした。しかし知識のなさや貧しさにつけこまれて、ただでさえ貧しい生活をさらに利用されていくことも少なくなかったのです。しかしこのやもめは、その信仰のゆえに、決して弱い人では終わらなかった。確かに持っている生活費は、このレプタ銅貨2枚だけ。その2枚の銅貨も、いまここで投げ入れてしまった。しかしこの世から見たら、貧しい弱者であっても、神の目から見たら、決して弱者ではない。むしろ圧倒的な勝利者であった。
ここにまず、私たち現代のクリスチャンに対する励ましがあります。この世の人々の目に映る私たちと、神の目に映っている私たちとは違うのです。この世から見れば、教会は弱い者かもしれません。クリスチャンひとり一人の生き様など、世に対して何の影響も与えられないと思うかもしれません。しかし神の目にはそうではありません。イエス様は、人々が献金を投げ入れる様子をじっと見ておられました。金持ちたちがいかに多くの金額をささげ、じゃらんという大きな音がしても、イエス様の心を動かすことはありません。しかし名もなく、誇るべきものも何もないひとりのやもめが、おそらくおずおずとささげたレプタ銅貨二枚、献金箱の底で響いたかすかな金属音は、地上のどんな讃美よりも激しく、イエス様の心を揺さぶったのです。
2.
人の心の中さえも見通すことのできる神の子イエスは、そのレプタ銅貨二枚が彼女の生活費のすべてであったことをよく知っておられました。それは金額で言えば、百円に毛が生えた程度です。献金一口というよりは振込手数料に近い金額です。ささげることさえためらわれるような、わずかな金額です。しかし神の子イエスは、「この貧しいやもめは、だれよりも多く投げ入れました」と宣言されました。人の目には銅貨二枚であったとしても、神の目には、言葉に言い尽くせないほどの価値があったのです。
赤字に苦しんでいた、ある教会で会計役員が赤字を埋めるために、特別献金のアピールをしたそうです。その方は、言葉がきつすぎたと感じたのか、「思いが与えられない方は、無理にささげなくても結構です」と付け加えました。しかしその後、牧師がこう言ったそうです。「思いが与えられない方は、決してささげてはいけません。信仰から出ていないことは罪です」。ちょっとかっこよすぎて、実話かどうか怪しいのですが、このレプタ銅貨二枚をイエス様が賞賛されたのは、全財産をささげたからではなく、喜びをもって全財産をささげたからです。なぜ喜びがあったと言えるのでしょうか。それが、この箇所が、律法学者たちに用心せよという言葉の後につながっている理由でもあります。
律法学者とこのやもめはあらゆる点で対照的でした。食いつぶす者と食いつぶされる者。社会的強者と社会的弱者。権利が認められていた男性と、認められていなかった女性。富める者と貧しい者。しかし一番大きな違いは、「人の目ばかり気にしている信仰」と「いつも神が見ておられることを自覚する信仰」です。人が見ているときだけぴんと背筋をはる信仰ではなく、人が見ていようがいまいが、いつも神は私の上に目を注ぎ、見つめておられるという信仰です。
3.
そこには自然に喜びが生まれます。喜びがあるからこそ、持っているすべてのものを容赦なくささげることができます。二レプタささげれば、二百レプタ、二千レプタ返ってくるだろうという、報いを求めての献金ではなく、幼子が、大好きなお父さんのために何かをしたいという、純粋なささげものです。私たちクリスチャンは、キリストの十字架の救いを信じ、神の子どもとされた者たちです。子どもというのは、思春期と反抗期は別として、父母が自分を見てくれているとき、喜びを感じます。何が起こっても、私を見離さず、見捨てることのないお父さんがおられる、いう平安が私たち、神の子どもに与えられています。神さまの前に、裏表を使い分ける生き方はまったく無意味、「私はこのままで愛されている、私のこのままの姿を神は見ておられる」と心から信じています。ですから私たちは隠しません。ありのままの心の中を、父なる神が見ておられたとしても、恐れがないどころか、感謝があります。将来に対する不安も、罪に対する弱さも覆い隠さず、主に明け渡して生きています。
イエス様は、彼女は「持っていた生きるすべての手立てを投げ入れた」と語られました。以前の翻訳では「生活費のすべてを投げ入れた」と訳されていました。しかしその「生活費」という言葉は、直訳すると「生活」です。イエス様はお金をささげたことを賞賛したのではなく、彼女が自分の生活そのものをささげたことを賞賛されたのです。家に帰っても食べるものがない、どうしよう。明日起きたら健康を崩していたらどうしよう。今週、生活していくための仕事が与えられなかったらどうしよう。お父さんが与えてくれる。必要でないものは何一つ与えられないが、必要なものはどんなものでも必ず備えられる。その信仰をもって、彼女は生活のすべてを神におゆだねしました。
結.
おそらくイエス様は、生活のすべてをささげたこの女性の姿をみつめながら、自分もまた、生活どころか命そのものを十字架に明け渡す時が近づいていることを思われたことでしょう。私たちすべての罪人のために、イエス様は生活ではなく生命そのものを与えてくださいました。ご自分の命を、私たちのために完全にささげてくださったイエス様。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得があるでしょうか」と、別のところでイエス様は語られました。まことのいのちを得た喜びを、私たちは、私たちのやり方で、神におささげします。献金だけではありません。礼拝を、証しを、祈りを、交わりを、隣人愛を、神に与えられた生活、そしていのちをささげていきたいと思います。