聖書箇所 『ルカの福音書』20章20-26節 20さて、機会を狙っていた彼らは、義人を装った回し者を遣わした。イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった。21彼らはイエスにこう質問した。「先生。私たちは、あなたがお話しになること、お教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。22ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」23イエスは彼らの悪巧みを見抜いて言われた。24「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。25すると、イエスは彼らに言われた。「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」26彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙ってしまった。おはようございます。四旬節の第二週に入りました。以前にもお話ししたように、四旬節というのは40日、つまり6週間ありまして、最後の6週目が受難週、そしてその翌週がイースターとなっています。ただアドベントですとキャンドルに毎週一本ずつ火をともしていったりしてわかりやすいのですが、四旬節の場合は、そういうものがありません。先に私は今年はイエス様の最後の一週間を六週かけて追いかけましょうと宣言しました。しかし実際に説教の準備をして思ったのですが、十字架の直前、最後の晩餐の時まで、イエス様はずっとパリサイ人とかサドカイ人とか律法学者とか、そういう人たちと論争ばかりしていて、今日の聖書箇所も、ローマ皇帝に税を収めるのは是か非かという、およそ十字架とは無関係に思えるやりとりをしております。今週は税金の話、来週は結婚の話、再来週はダビデの子という話、と、どうも私が考えていたような、十字架への決意を少しずつ高めていくような感じにはならないかもしれないと早くも不安になっています。しかし考えてみると、もし私たちが自分の人生があと一週間で終わるとわかっていた場合、何を優先するでしょうか。私たちであれば、家族と心置きなく話すとか、行ってみたかった場所に行ってみるとかかもしれませんが、イエス様の最後の一週間は、ひたすら神のことばを語るということばかりでした。じつは私たちにとっても本来そうであるはずです。つまり、私たちにとって地上での死というのは終わりではない。そこから本当の人生が始まるという、永遠の命に対する信仰を持っているのがクリスチャンです。もし明日自分の命が終わるとしても、それは地上での第一部が終わるだけで、しばしの休憩の後、第二部が始まるということではないでしょうか。だとしたら、イエス様の最後の一週間が特別なものではなく、それまでの繰り返しのようなものであったことも不思議ではないかもしれません。 さて、前置きが長くなりましたが、四旬節第二週の説教では、まず義人を装った回し者がイエス様のもとに遣わされてきた、というところから始まります。おそらくいかにも謙遜で信仰的な人々を装っていたのでしょう。イエス様以外の人たちには、さぞ善良な人々に見えていたことでしょう。顔には柔和な笑みを浮かべ、イエスに対する尊敬の思いを言葉の節々ににじませて、・・・・しかし、彼らはなめらかな蜜のようなその言葉の背後に、イエス・キリストに飛びかかるための鋭い牙と爪を隠し持っていました。彼らは表向きは律法、すなわち神のことばに忠実な者を装いつつ、こうイエスに質問するのです。「ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」。 カエサルとは、当時イスラエルを支配していたローマの最高権力者、ローマ皇帝を指します。ローマ皇帝、すなわちローマ政府に税金を納めることは、神のことばに照らしてよいことなのか、悪いことなのか、と彼らは聞いてきました。じつはこの質問は、どちらに答えても罠になる、たいへんいやらしいものでした。もしイエス様が、税金を納めることはよい、と言えば、ローマに対して反感を持っている多くの民衆を敵に回すことになります。しかし逆に税金を納めるべきではない、と言えば、今度はイエスをローマ帝国に対する反逆者として訴える口実になりました。 私たちは、ここまで露骨な言葉狩りのようなことは経験することはないでしょう。しかし実際の信仰生活や人間関係の中で、あなたはどちらをとるのかという選択を迫られることはしばしば起こることです。しかしイエス・キリストの姿はいつ、いかなる場合でも、私たちクリスチャンの模範です。主はこう言われました。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」。 カエサルのもの、それはカエサルの像と銘が刻まれたデナリ銀貨のことでした。それをカエサルに返しなさい、とはどういうことか。文字通り、納税の義務を果たしなさい、ということです。しかしここでイエスはさらに「神のものは神に返しなさい」とも言われました。間違えないでいただきたいのは、ここでカエサルと神は、天秤のようにお互いに対立しているものではないということです。地上の絶対的権力者であるカエサルも、ほかのあらゆる人間と同じように、神の絶対的権威に服するものでしかありません。私たちはこの地上に、日本人として生きています。日本の国籍を持つ、日本国民である以上、納税の義務、教育の義務といった憲法に規定されているものを果たします。しかしそれをいやいやながら行うのではなく、喜んで自分がすべきことを果たすとき、それは神のものを神に返すことになるのです。 もう少し説明が必要でしょう。社会では勤め人として働く、家庭では家事や教育に責任を持つ、その他たくさん、私たちはやるべきことを持っています。それはいわば、カエサルのものはカエサルに、とあるように、この地上で生かされている中で、私たちが行わなければならないことです。しかし自分のために、家族のために、国のために、ということ以上に、私たちはそれらをすべて含めて、神のために、という視点の中で、喜んで行っていくときに、それは義務感や強制意識を生むものではなく、喜びと感謝を生み出すものになります。イエス様は「神のものを神に返しなさい」と言われました。「神のもの」、それはほかならぬ私たち自身のことです。カエサルの肖像が刻まれた銀貨がカイザルのものであるように、神のかたちとして造られた私たちひとり一人は神のものである。そして私たち自身を、神のもとに返しなさいとは、私たちが本来あるべき場所、いるべき場所に私たちを戻しなさいということです。 本来あるべき場所とは、罪人ではなく、神の子どもとして親しい交わりを持っていたもともとの人の姿ということです。それを取り戻すために、イエスは十字架へ向かっていたのです。神から離れ、神に逆らい、罪を犯し続けるすべての人間が、ふたたび神のものとなるために、イエスは十字架へ向かっていった。私たちの罪をすべてその身に引き受け、罪人として殺されることにより、生まれながらの罪人である私たちを救い出す。それが十字架です。 カエサルのものはカエサルに。それは、この世が与えてくれるものは、最後はすべてこの世に返すことになる、ということも表しています。この世が与えてくれるものは、それが豊かな富であれ、歴史に残る名声であれ、人間関係であれ、私たちはやがてすべてを置いていかなければなりません。しかしイエス様は、神のものは神に、と言われました。財産や人の評価、、栄光、地上限定の祝福より遙かに勝る、永遠の祝福が、十字架の先にあります。今日、それをもう一度受け取りましょう。私自身を、神のものとして告白することによって。心の中にイエス・キリストを受け入れるのです。そのとき、決して朽ち果てることも、取り去られることもない、永遠の救いの喜びが与えられます。2017 新日本聖書刊行会
2024.2.25「あなた自身が神のもの」(ルカ20:20-26)
みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。